むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記485 日本の名映画監督、脚本家⑤ 迫力ある映画で知られる映画監督~深作欣二

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、日本の名映画監督、脚本家シリーズの第5弾!!!

 

迫力ある演出で傑作映画を生み出した監督

 

深作欣二(1930-2003)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://showa-g.org/men/view/52

 

深作欣二は1930年、茨城県に誕生します。

1945年、15歳のときに水戸で敗戦を迎え、敗戦後の闇市をぶらついて、映画漬けになった日々がのちの深作の人生を決定づけていきます。

 

1953年に日大芸術学部映画学科を卒業して、東映に入社。

当初深作が配属されたのは、時代劇が中心の時代にどちらかというと添え物の現代劇を製作していた東京撮影所でした。

 

そんな中、1961年、深作は、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビューを果たし、以後千葉とは17作品にわたってコンビを組んで、ヒットを連発していきます。

 

千葉主演の『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』ならびに1966年の『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は1968年から73年に放映され、大ヒットしたテレビドラマ『キイハンター』の土台ともなった作品で、深作自身、『キイハンター』の演出を一部の回で務めました。

 

参照元 https://www.kyoto-wel.com/item/IS81212N09314.html

 

1973年の『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残る大ヒットを記録し、その後も『蒲田行進曲』や『里見八犬伝』など、彼の代表作となるヒット映画を次々と世に送り出していきます。

 

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参照元 https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%81%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E6%88%A6%E3%81%84-Blu-ray-COLLECTION-%E8%8F%85%E5%8E%9F%E6%96%87%E5%A4%AA/dp/B079GRVM1C

 

テレビドラマでも萩原健一主演の『傷だらけの天使』で監督を務め、『必殺シリーズ』の演出なども担当しました。

 

1997年に紫綬褒章を受章。

2000年には彼の映画での遺作となる『バトルロワイヤル』が公開され、話題を呼びます。

 

参照元 https://mudage888.biz/post-386/

 

2002年には、カプコンプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め(モーションキャプチャ収録)、これが撮影終了まで関わった最後の作品となりました。

 

2002年、前立腺がんの脊椎転移を公表し、『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表しますが、一時危篤状態に陥り、息子の深作健太が引き継ぎます。

 

2003年、渡瀬恒彦藤原竜也が見守る中、深作は息を引き取ります。

享年72歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記484 日本の名映画監督、脚本家④ シナリオライター御三家ともいわれた~向田邦子

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は日本の名映画監督、脚本家シリーズの第4弾!!!

 

テレビドラマ脚本家で直木賞受賞作家でもある

 

向田邦子(1929-1981)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 https://www.shinchosha.co.jp/writer/2964/

 

向田邦子は1929年、現在の東京都世田谷区に生まれ、父は第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)で給仕として入社し、そこから幹部社員まで上り詰めて苦労人で、転勤族でもあり、向田も6回の転校をします。

1947年、実践女子専門学校(実践女子大学)国語科に入学、祖父母の家に下宿します。

 

大学卒業後新卒で財政文化社の社長秘書として入社し、1952年雄鶏社「映画ストーリー」編集部に入って記者として働きながら、市川三郎に師事して、脚本を学びます。

 

1959年ごろからラジオドラマの台本を書き始めて、途中からテレビドラマの脚本に転向、1960年には本格的に脚本家への道を進み、雄鶏社を退社します。

 

1962年TBSラジオ「森繁の重役読本」の台本を執筆し、これは7年間続きます。

 

向田は様々なヒットドラマを生み出し、

七人の孫』『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』などが有名。

 

参照元 https://www.letao.com.tw/yahoojp/auctions/item.php?aID=c738977346

 

向田は1975年に乳がんの手術を受け、後遺症で右腕が動かなくなりながらも、左手でエッセイ『父の詫び状』を連載、1978年に初のエッセイ集として刊行します。

ここからエッセイストとしても活動し、さらには1981年には長編小説『あ・うん』を発表。

 

42歳のときから世界一周旅行を開始。

1981年8月22日、向田を乗せた台北発高雄行き台湾・遠東航ボーイング737型機が突如空中分解し、墜落。

乗客乗員110名、全員死亡するという事故が起き、向田は享年51歳でした。

これが向田にとっては初めての台湾旅行でした。

 

向田の死後、1983年、優れた脚本に贈られる「向田邦子賞」が創設されました。

 

むかちん

 

むかちん歴史日記483 日本の名映画監督、脚本家③ ドキュメンタリー、映画、娯楽幅広く携わった監督~市川崑

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は日本の名映画監督、脚本家シリーズの第三弾!!!

 

娯楽映画、ドキュメンタリー、テレビドラマなど幅広く活躍した監督

 

市川崑(1915-2008)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%B4%91

 

市川崑は1915年に現在の三重県伊勢市の呉服問屋の家庭に誕生します。

当初が画家に憧れていましたが、財産がないと難しかったため諦めます。

しかし、1932年に公開された伊丹万作監督の『国士無双』を見て、感動し、映画界に志望を変更しました。

その後、少年時代にみたウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれて、アニメーターとなり、アニメの下絵描きからスタートします。

 

1945年8月6日、広島に原爆が投下されますが、奇跡的に広島にいた家族は全員無事でした。1948年、市川は実写映画に場を移して監督デビューします。

 

1955年、映画製作を再開したばかりであった日活で『ビルマの竪琴』を発表、さらには大映に移籍して毎年のように映画を発表します。

特に1960年の『おとうと』は自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となりました。

 

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参照元 https://movie.jorudan.co.jp/cinema/22284/

 

1965年製作の『東京オリンピック』は当時の興行記録を塗り替えます。

 

テレビ放送が開始されたのちは、映画界にはテレビを敵視したり、蔑視するものも多かったのですが、市川はこれにいち早く目をつけて、積極的に進出しました。

 

1972年に監督・監修を務めた中村敦夫主演の連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)は斬新な演出などで歴史に残る名作となりました。

 

1970年代後半には横溝正史の『金田一耕助シリーズ』を手掛けます。

これを機に横溝正史ブームが巻き起こりますが、市川は他にも『細雪』などの文芸の大作も手掛けていきます。

 

2008年肺炎のため、病院で死去します。92歳でした。

 

むかちん

 

 

むかちん歴史日記482 日本の名映画監督、脚本家② 独特の映像世界で優れた作品を世に送り出した~小津安二郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、日本の名映画監督、脚本家シリーズの第二弾!!!

 

独特の映像世界で多くの作品を世に送り出した映画界の巨匠

 

小津安二郎(1903-1963)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E

 

小津安二郎1903年に現在の東京都江東区深川の海産物問屋を営む家庭に誕生します。

 

1921年、商業の道へ進んでほしいという親の意向から神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験したが落第、翌1922年三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験したが、これも落第します。

小津が多くの映画に触れたのもこの時期と言われています。

 

その後、1年間だけでありましたが、教師として赴任します。

 

小津は映画への愛着が捨てられずに映画の仕事をするために、教師を辞め、1923年、松竹蒲田撮影所に入社します。

1924年から1925年の1年は当時の徴兵制度に従って志願兵として入隊、除隊後に職場復帰し、映画製作のノウハウを体得していきます。

 

1927年には念願の監督へと昇進。時代劇作品なども作りましたが、同年に時代劇部が京都へ移転し、蒲田は現代劇に特化したため、小津もその方針に従い、現代劇の作品を制作していきます。

1930年には1年に7本の映画を作るハイペースで、これが小津史上最も多くの作品を作った1年になりました。

 

1937年、小津は召兵され、中国戦線へ出向きます。1939年帰還命令を受けて神戸へ戻り、その後除隊。

 

1939年、内務省の指示で映画法が成立し、映画が事前に検閲されることとなったため、映画が完全に国家に統制されることとなります。

小津の作品が検閲で通らなかったこともあり、これは映画界に大きな衝撃を与えました。

小津がめげずに製作した1941年の『戸田家の兄妹』が小津の初めてのヒット作になります。

 

日米開戦後の1943年、小津は軍報道部映画班に徴集され、福岡から軍用機でシンガポールへ向かいます。

小津はシンガポール終戦を迎え、1946年に広島港へ到着、帰国します。

 

1949年、小津と長年共に映画を作っていくことになる、原節子を初めて迎えた『晩春』を発表、この作品は独自の撮影スタイルの徹底や伝統的な日本の美の追求などの観点から、その後の小津作品の礎の作品となりました。

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%A9%E6%98%A5_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 

その後は1年に1作のペースで徹底的に作りこまれた映画を制作していきます。

1951年『麦秋』が芸術祭文部大臣賞を受賞、名監督としての地位を決定的にします。

 

1953年には原節子笠智衆をメインに据えた『東京物語』を発表、これが小津の代表作となります。

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%A9%E8%AA%9E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tokyo_monogatari_poster_2.jpg

 

1958年に製作した『彼岸花』で3度目の芸術祭文部大臣賞受賞、同年、それまでの功績が讃えられ、紫綬褒章を受章。

 

1962年の『秋刀魚の味』が小津の最後の作品となり、1963年、小津は60歳で死去します。

小津作品で中心を担った原節子は2015年に亡くなるまで、公に姿を見せることはなくなりました。

 

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むかちん歴史日記481 日本の名映画監督、脚本家① 女性映画の巨匠~溝口健二

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今日は日本の名映画監督、脚本家シリーズの第一弾!!!

 

女性映画の巨匠と名高い

 

溝口健二(1898-1956)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 https://100kenjimizoguchi.com/100kenjimiyazaki-com/

 

溝口健二は、1898年に現在の東京都文京区の大工を営む家庭に誕生します。

1913年、満15歳のときに、浴衣の図案屋に弟子入り、その後、模様絵師に弟子入りして、1916年には洋画研究所で洋画の基礎を学びます。

 

1920年、日活向島撮影所入社。俳優志願で入社しましたが、小口忠の助監督に就くことになり、やがて田中栄三の助監督として、彼の代表作である『京屋襟店』などの作品を担当します。

 

1923年、『愛に甦る日』で映画監督デビューを果たしますが、貧乏生活の描写があまりにも写実的過ぎたがために、検閲で大幅にカットされてしまいます。

 

1932年、日活を辞めて、新興キネマに入社します。1933年の泉鏡花作品の映画化となる『瀧の白糸』がキネマ旬報ベストテン第2位にランクインされ、興行的にも成功、溝口のサイレント期の傑作となります。

 

その後、松竹加茂撮影所に移り、村松梢風原作の『残菊物語』、田中絹代の『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といったいわゆる『芸道三部作』を制作します。

しかし、溝口はそこからしばらくスランプ期に入り、低迷します。

 

これを脱却させたのが井原西鶴の『好色一代女』を基に製作した1952年の『西鶴一代女』で、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、国際賞を受賞、海外で一躍注目を集めたことによって、溝口の国内での評価も大きく変わります。

 

参照元 https://item.rakuten.co.jp/smileone-dvd/10260230/

 

1953年の上田秋成原作『雨月物語』、1954年の『山椒大夫』でサン・マルコ銀獅子賞を受賞、1952年から3年連続で国際映画祭での受賞という快挙で、国際的に注目を集める映画監督となります。

 

1955年には大映取締役、同年紫綬褒章を受章。

 

溝口はワンシーン・ワンカット長回しを多用する技法で知られ、非常に妥協を許さない映画製作を行っていました。

演技指導も非常に厳しく、やり直しを命じるも役者に演技の指摘は一切しないので、途方に暮れる役者もいたほどでした。

 

1956年、単球性白血病により逝去します。56歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記480 ルーヴル美術館所蔵の皇帝・国王⑤ フランス絶対王政の象徴~ルイ14世

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今日はルーヴル美術館所蔵の皇帝・国王シリーズの第5弾!!!

 

フランス絶対王政の象徴的な国王

 

ルイ14世(1638-1715)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Louis_XIV_of_France.jpg

 

ルイ14世は1638年、フランスブルボン王朝の国王ルイ13世の長子として誕生します。

 

父であるルイ13世は母で王妃のアンヌを信用していなかったため、自分の死後にアンヌが実権をにぎらぬよう、摂政諮問会議の設置を遺言します。

1643年、ルイ13世が41歳で死去するとわずか4歳のルイ14世が即位して、母后アンヌが摂政となりますが、アンヌと実質的な宰相となる枢密卿マザランによって遺言の摂政諮問会議は廃止されてしまいます。

 

マザランは有能な政治家ではあったものの、非常に私財を蓄える癖のある人物で、フランスの民衆も貴族も財政逼迫によって苦しめられ、母后と枢密卿をよく思ってはいませんでした。

 

1651年、王権の強化によって既得権を奪われることを恐れた貴族たちがフロンドの乱を引き起こしますが、これはマザランの巧みな手腕によって鎮圧されます。

 

1654年、15歳を迎えたルイ14世は正式に王位を授かります。

当然のことながら、それでも母やマザランの影響は大きかったのですが、

1661年、宰相マザランが他界すると、23歳で親政を宣言し、内政・外交を自らで積極的に統治していきます。

 

彼は「朕は国家なり」と言ったとされますが、ルイ14世は王権神授説に基づく絶対王政を敷きます。

 

但し、ルイ14世が他の王と違ったのは宰相を置かずに王政を補佐する機関として最高国務会議を設けたこと、その最高国務会議は王族や貴族を排除して、実力本位の官僚を採用したことなどの特色があります。

 

実力本位の官僚で言うと、財務を担当するコルベールや軍政を担当するルーヴォワは市民階級の出身でした。

財政を任されていたコルベールは傾いた国家財政の再建を目指して、国家が輸出入や商品流通などの経済活動に強く介入して、国富を富まし、財政を安定させ、国内の金銀保有量を増やすため、輸入を制限して輸出を増やすことを目指す、いわゆる重商主義政策を取りました。

 

1664年にはフランス東インド会社を再建して、海外植民経営の積極化に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川流域の広大な領土を獲得、そこをルイジアナと名付けます。

インドにおいてはポンディシェリシャンデルナゴルにおいて、商館を設けて貿易を拡大します。

 

外交においては、ハプスブルク家との衝突を重ね、イギリス・スペインの同君連合と戦うことになります。これは第二次英仏百年戦争とも呼ばれ、各地でイギリスとフランスは領土をめぐって紛争しました。

 

ルイ14世は国内的にはヴェルサイユ宮殿を建立したことで有名です。

 

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参照元 https://do-cca.com/2018/06/12/worldcastle_versailles/

 

ここに貴族・官僚およそ一万人を集めて、彼らを統制することに成功します。

豪勢な暮らしをしていたとされます。

 

ルイ14世の晩年は度重なる戦費によって、フランスの財政は破綻寸前となっており、重税のためにフランスの民衆は困窮していました。

 

1715年、壊疽によって76歳で亡くなります。

彼の葬列では彼の死を歓喜し、罵声を浴びせるものもいたとされます。

 

続くルイ15世も度重なる戦争でフランス財政を逼迫、その次代ルイ16世のときについにフランス革命が勃発することになるのです。

 

むかちん

むかちん歴史日記479 、ルーヴル美術館所蔵の皇帝・国王④ 失政によって革命が起きた~チャールズ1世

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)

 

今日は、ルーヴル美術館所蔵の皇帝・国王シリーズの第4弾!!!

 

失政によって、革命が巻き起こったイギリス国王

 

チャールズ1世(1600-1649)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 http://tabisuru-c.com/travel/france200508/20050817-20.htm

 

◆チャールズ1世はスコットランド王ジェームズ6世(のちのイングランドジェームズ1世)の次男として、スコットランドに誕生します。

 

兄が早世してしまうので、チャールズ1世が王太子となります。

王太子の頃から政治にかかわりを始め、1621年にはヨーク公としてイングランド議会の貴族院の議員となります。

 

1625年、父の死去に伴い、イングランドスコットランドアイルランド王チャールズ1世に即位します。

チャールズ1世はバッキンガム公の補佐により、フランス王アンリ4世の娘でルイ13世の妹にあたるヘンリエッタ・マリアと結婚しましたが、プロテスタントのイギリスで、カトリックの王妃を迎え入れたことが反カトリック派の反感を買うことになります。

 

チャールズ1世が父と同様、王権神授説を信奉し、絶対王政を強いたことや、補佐のバッキンガムの権力欲と無能ぶりに辟易とした議会が対立を深めていったため、議会を解散したものの、スペインへの遠征は失敗し、バッキンガム公への批判はさらに強まりました。

 

1628年、反バッキンガム公および、反専制で固まった議会から「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められ、チャールズ1世はこれに署名するも、相変わらず続くバッキンガム公批判に対してはかばい続けます。

しかし、バッキンガム公は同年に暗殺され、チャールズ1世は側近を失うことになります。

 

その後、外交ではスペイン・フランスと和睦しますが、内政では、財政再建のために国王大権を濫用し、国民から強引に徴税し、アイルランドスコットランドにまで国教会を押し付けてピューリタンプロテスタントカルヴァン派)を阻害したことから、反乱・暴動が起こるようになります。

 

スコットランドで起きた長老派の反乱を鎮圧するために、課税を行う目的で議会が招集されますが、これに激しく批判が巻き起こり、議会は解散されます。

スコットランド軍が侵入してきたことから再度議会が招集されますが、クロムウェルらが提出した国王に対する大抗議書が僅差で可決されます。

 

もはや王党派と議会派の衝突は避けられない状態にまで来ており、

1642年、ついにピューリタン革命が勃発、クロムウェルの指揮する議会軍は鉄器隊を率いて、王党派と闘い、議会派の勝利、チャールズ1世はとらえられます。

 

捕らえられたチャールズ1世ですが、巧みに姿を消して、再起を図るためにスコットランドと軍事上の密約を交わして再び内乱をおこしますが、敗れ去り、再び捕らえられてしまいます。

 

その後もチャールズ1世は議会派の内部対立を招く謀略を重ねたため、当初立憲君主主義者であったクロムウェルもチャールズ1世に対しては断固たる姿勢で臨むことが必要と考え、1649年、チャールズ1世は処刑されます。

 

彼の最期の言葉は以下のようなものでした。

 

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「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")

 

出展:https://www.y-history.net/appendix/wh1001-027.html

 

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むかちん