むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記453 映画化された偉人たち③ フランスの自然主義文学の定義者~エミール・ゾラ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は映画化された偉人たちシリーズの第三弾!!!

 

フランス小説家で、自然主義文学の定義者でもある

 

エミール・ゾラ(1840-1902)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Emile Zola 1902.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%A9

 

参照元 https://mnky.jp/104263

 

エミール・ゾラ1840年ヴェネツィア出身の技術者の父とフランス人の母との間の一人息子として、パリで誕生します。

 

しかし1847年、父が他界したために、残された家族は苦しい生活を余儀なくされました。

 

1858年、大学入学試験に挑戦するも二度失敗し、1862年から出版社で働き始め、少年時代からのロマン主義的な傾向を捨てて、詩作から小説へと方針転換を果たします。

 

1865年からは本格的な評論も始め、1866年にはジャーナリスト・作家として生きていくことを決断して、出版社を退職します。

 

ゾラは様々な作品を世に残します。

例えば代表作『居酒屋』はアルコール中毒によって破滅していく労働者階級を描いた作品で、社会に大きな影響を与え、爆発的なヒットをしましたが、論壇は二分され、ゾラは「腐敗した文学」と批判されました。

 

彼の名を世により知らしめたのが「ドレフュス事件」です。

1894年、第三共和政下のフランスで、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイの嫌疑をかけられ、本人は無罪を主張したものの、有罪判決を受け、無期流罪を言い渡されます。

 

ゾラはこれに対し、1898年『余は弾劾す』を発表してドレフュスを弁護します。

これによってゾラ自身も罪に問われ、イギリスに亡命します。

 

結局1899年、再審となり、再びの有罪判決と大統領特赦を経て釈放、1906年には無罪が確定します。

これは当時のフランス社会の反ユダヤ主義如実に示した事件でした。

 

フランス帰国後の1902年、ゾラは一酸化炭素中毒で亡くなります。

これは当時、事故として処理されましたが、反ドレフュス派が故意に煙突をふさいだという疑惑もあり、真相は解明されていません。

 

むかちん

むかちん歴史日記452 映画化された偉人たち② イタリアの天才バイオリニスト~ニコロ・パガニーニ

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今日は映画化された偉人たちシリーズの第二弾!!!

 

イタリアの作曲家にして天才バイオリニスト

 

ニコロ・パガニーニ(1782-1840)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Niccolo Paganini01.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8B

 

参照元 https://mnky.jp/104263

 

◆ニコロ・パガニーニは1782年、イタリアのジェノヴァで生まれ、アマチュアの音楽家であった父から、マンドリンとヴァイオリンの音楽教育を受けます。

 

パガニーニの才能を見出した父は、バイオリニスト、作曲家、指揮者にそれぞれ師事させ、12歳になるころには教会に楽曲を提供するまでになっていました。

この少年の傑出したテクニックに回りは圧倒されたといいます。

 

1790年代後半、フランスのナポレオンがイタリアに侵攻し、ジェノヴァを占領した一方で英国艦隊が海上封鎖をしたため、パガニーニ一家は故郷ジェノヴァを離れることを余儀なくされます。

 

1801年、パガニーニルッカという街に移り、ここで10年以上を過ごすことになります。

このルッカの街のコンサートで彼の並外れた才能と常識外れの言動が公に出るようになります。

 

1810年、彼はオーケストラからの独立を決意して、イタリアで演奏旅行に出かけます。

 

パガニーニの楽曲は大きな影響を与え、彼が作曲したヴァイオリン協奏曲『ヴァイオリン協奏曲 第2番ロ短調』にピアニストのリストは、この曲のピアノ用の曲を作曲します。

しかし、意欲的に作曲を行っていたものの、彼はほとんど弟子を取らず、盗用を恐れて楽譜を残そうとしなかったので、オリジナルの楽譜はほとんど失われています。

 

その後もドイツやフランス、イギリスへ演奏旅行を行い、成功を収めます。

 

晩年のパガニーニは、1837年はじめにジェノヴァに戻りますが、病にむしばまれていたため、演奏家としては活動できなかったものの、作曲の意欲は衰えていませんでした。

 

パガニーニ1840年、死の床につきますが、梅毒や結核などのうわさもあり、埋葬が拒否され、幾度かの改葬を繰り返された結果、1876年、ようやくパルマの共同墓地に安置されることになります。

 

むかちん

むかちん歴史日記451 映画化された偉人たち① フランス革命に散った反革命の王妃~マリー・アントワネット

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今日は、映画化された偉人たちシリーズの第一弾!!!

フランス革命で革命派に処刑された悲劇の王妃として描かれる

 

マリー・アントワネット(1755-1793)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-042.html

 

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参照元 https://www.amazon.co.jp/dp/B000P7VOJY

 

マリー・アントワネットは1755年に、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生します。

オーストリアの女帝、マリア・テレジアは非常に子だくさんで知られる)

 

当時のオーストリアの情勢はプロイセンの脅威にさらされていたため、フランスとの結びつきを強めようとしていました。

そのため、フランスののちのルイ16世との政略結婚をマリア・テレジアは企図し、

1770年、マリー・アントワネットは14歳でフランスへ嫁ぎます。

ルイとの結婚はヴェルサイユ宮殿で行われました。

 

ルイとアントワネットの関係は良好だったようです。

アントワネットは子どもが生まれるまでは賭博などをしていたようで、母であるマリア・テレジアから書簡で戒められていたようですが、効果はなかったようです。

 

アントワネットの現在まで語り継がれるイメージとしては、ただただ浪費家で豪華な生活を送っているというものかもしれませんが

実際には宮廷内の貧困者のためにカンパを募ったり、子供におもちゃを我慢させたりと母親としてはいい側面があったようです。

 

1774年、ルイ16世の即位により、王妃となります。

しかし、1789年、フランスの民衆が爆発し、フランス革命が勃発。

 

この背景には彼女に守られなかった貴族たちがパリで彼女の悪評を立てたことも一因にあって、アントワネットは憎悪の対象となりました。

 

彼女が最終的には断頭台に散るのは有名な話ですが

これが避けられなかった要因には、彼女自身の信念も大きかったようです。

 

マリー・アントワネットが過ごした時代は君主主義が当然であり、王権神授説的な「王権は絶対不可侵」という考え方が彼女には根付いていました。

しかも彼女は政治的教育などまったく受けたこともなかったので、それから少しでも外れるものは過激派であり、疎ましい存在でした。

 

なので、フランス革命も恐怖の存在でしかなかったのです。

 

一方でフランス革命の当事者たちも念頭にあったのは「君主制」でした。

君主を廃しようとまでは当初考えておらず、「立憲君主制」という憲法を背景にした政治制度を模索していたのです。

 

情勢を悪化させたのは1791年のヴァレンヌ事件でした。

国王ルイ16世マリー・アントワネットが逃亡しようとした事件で、この発覚により、国王の権威は失墜し、共和政への道が生まれるのです。

 

1793年、革命裁判で夫、ルイ16世がギロチンの刑に処されると、アントワネットも裁判にかけられます。

彼女はすべての罪状について無実を主張、裁判は難航しますが、結局、コンコルド広場でギロチンの刑に処せられます。

 

アントワネットは妹あてに遺書を残します。

内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」と。

 

これは結局1816年、革命を生き延びた唯一の子、マリー・テレーズが20年以上の時を経て読むことになるのです。

 

むかちん

むかちん歴史日記450 日本の歴史小説で扱われた人物たち⑤ 戦争防止に努めた悲劇の元宰相~広田弘毅

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(((o(*゚▽゚*)o)))

 

今日は日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第5弾!!

 

戦争防止に努めて、最期は軍人とともに死刑となった悲劇の元宰相

 

広田弘毅(1878-1948)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85

 

f:id:ooemaru:20190701152805p:plain

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E8%90%BD%E6%97%A5%E7%87%83%E3%82%86-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%9F%8E%E5%B1%B1-%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4101133182

 

 ◆広田は1878年、福岡の石工の息子として誕生します。

福岡県立修猷館に入学し、のちに日本最古の右翼団体ともいわれる玄洋社に入社します。

 

広田は当初、家計へ負担をかけまいと陸軍士官学校へ入るつもりでしたが、1895年の三国干渉を目の当たりにして、外交官を志すようになります。

 

修猷館卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に進学します。

講道館に入り、中国・朝鮮を視察したり、日露戦争時に捕虜収容所で、ロシア語の通訳を行いました。

 

1905年、高等文官試験外交科をうけますが、英語が苦手で落第、翌1906年の試験は首席で合格します。同期には吉田茂もいました。

 

1907年に北京、その後ロンドンに赴任。

 

1923年、第二次山本内閣が発足するにあたり、欧米局長に就任します。

1925年、23歳のときに「幣原外交」をもとに各国政府に伝え、「外務省には幣原、出淵、広田の3人の大臣がいる」と言われるほどでありました。

 

1933年、斎藤内閣の外務大臣に就任。

 

続く岡田内閣でも外務大臣に留任します。

 

1935年外相の広田は帝国議会で、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言して、中国に対する外交姿勢も宥和的なものへと改められました。

 

中華民国政府は広田らと強い提携関係を結ぶため、中華民国側が3要件を提示しますが

広田はこれには納得せず、広田三原則に直して、要求します。

 

1936年、二・二六事件がおきると、岡田内閣は総辞職し、広田が首相に主任することになります。

しかし1937年には閣内不統一によって内閣総辞職

 

広田はしばらく鵠沼の別荘で恩給生活に入りますが、近衛文麿内閣が発足すると、近衛で要請で外務大臣に就任します。

 

しかし同年、盧溝橋事件が発生、事変不拡大、現地解決の方針を打ち出したものの、軍部の独走は誰にも止められない状態になっていました。

 

広田はアメリカ、イギリスを通じて、日中間の和平を画策しますが、陸軍の妨害に遭って、頓挫。その後陸軍は暗殺の標的として狙われるようになり、欧米からは陳謝する広田の姿が、欧米を油断させる作戦の一つと捉えらてしまっていました。

 

1945年、終戦

その年の12月は広田は巣鴨拘置所に収監され、むしろ軍人がなぜいるのかと驚いたといいます。

おしどり夫婦と呼ばれた妻が先に服毒自殺します。

これは、広田が死刑判決を受けたとしても、生への未練を軽くしようという妻の優しさでした。広田はこのやさしさを拘置所で感じ、身を震わせます。

 

1948年、11月。

広田は他の軍人6人とともに絞首刑が言い渡されます。

この不当判決に広田は一切言い訳をしませんでした。

自分が言い訳をすれば、だれかを貶めることになると感じていたからです。

 

これに対し、7万人以上の減刑の嘆願が行われました。

しかし、この刑が覆ることはありませんでした。

広田は同年12月、絞首刑により、死去。70歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記449 日本の歴史小説で扱われた人物たち④ 四国で繁栄した戦国大名~長宗我部元親

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今日は、日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第4弾!!!

四国で繁栄した戦国大名として名を馳せた

 

長宗我部元親(1539-1599)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E8%8D%89%E3%81%AE%E8%B3%A6

 

長宗我部元親は1539年、現在の高知県南国市にある岡豊城で、長宗我部国親の長男として誕生します。

幼少の頃は色白とおとなしく、軟弱な性格であったと言われていますが、

 

1560年、23歳と遅い初陣ではありましたが、長浜の戦いで自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せて武名を高めたと言われています。

 

同年、父の国親が急死すると、元親が家督を継ぎます。

 

元親は四国の統一に向け、勢力拡大に励み、

1563年には斉藤氏、1568年には宿敵・本山氏、1569年には安芸氏、1571年には土佐一条氏の家臣であった津野氏をそれぞれ滅ぼし、1574年には一条氏の当主・一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧します。

 

土佐を統一したのち、中央で統一事業を進めていた織田信長正室の縁戚関係から同盟を結び、それを背景に伊予国や阿波、讃岐国へと侵攻していきます。

そして元親は1580年までに阿波と讃岐の両国をほぼ制圧します。

 

1580年、信長は元親のこうした動きをよしとはせず

土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫りますが、

当然、元親はこれを拒否します。

 

元親は1582年、阿波を落とされるなど信長との対立はかなり危機的な状況になりますが、明智光秀によって起こされた本能寺の変によって、信長が死に、軍の撤退していったので、危機的状況を脱することができました。

 

こうした中央の混乱の中、元親は再び勢力拡大を図り、中富川の戦いで宿敵、十河存保を破り、阿波の大半を支配下に収めます。

 

1583年、賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家方について、豊臣秀吉らと戦います。

長宗我部は秀吉が送り込んできた軍勢を破りますが、この戦いで結局柴田勝家は滅んでしまいます。

 

1584年、小牧・長久手の戦いで秀吉が送り込んできた仙石秀久を破り、伊予へと勢力を拡大していきます。

 

1585年には四国全土をほぼ統一したと言われていますが、学者によっては見解が分かれているところです。

 

しかし、同年、秀吉によって讃岐、伊予、阿波と次々と長宗我部方の城を落とされると、元親は降伏し、土佐一国のみに安堵されます。

 

その後、秀吉に従軍して戦に参戦しますが

彼の晩年で、最も大きかったのは1586年、彼の世継ぎと考えていた信親とともに、島津氏を相手にした九州征伐に向かい、戸次川の戦いで信親が討ち死にしたことでした。

 

これによって、完全にそれまでの覇気を失った元親は自身も自害しようとしたが、家臣に止められ、それまでの慈悲深く度量の深い性格から、その度量が失われたとされます。

 

1599年、61歳で逝去します。

 

むかちん

 

むかちん歴史日記448 日本の歴史小説で扱われた人物たち③ 混沌とした時代を生きた将軍~足利義政

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今日は日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第三弾!!!

 

応仁の乱など混沌とした時代に銀閣寺建立など

数奇な将軍として知られる

 

足利義政(1436-1490)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 http://www.web-nihonshi.jp/asikagayosimasa.html

 

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%94%BF%E3%81%A8%E9%8A%80%E9%96%A3%E5%AF%BA-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89-%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/4122050693

 

足利義政は1436年、第6代将軍、足利義教の五男として誕生します。

義政は当初、将軍就任が期待されていなかったこともあり、同母兄の義勝が政所の執事の下で育てられたのに対し、義政は母方の一族で公家の屋敷で育てられました。

 

1441年、父が嘉吉の乱で暗殺されると、義勝が7代将軍に就任しますが、1443年に義勝も早世し、8歳にして義政が管領畠山持国などの後見を得て、将軍職に選出、元服を迎えた1449年に正式に8代将軍に就任します。

 

当初の義政は大名間の内紛などに積極的に介入し、守護大名に対する将軍の裁量を強化しようと図りました。

しかし有力な守護大名や母や妻の実家である日野家の介入に遭い、義政が自身に権限を集中させるのは困難でした。

 

1459年、長年住んだ烏丸殿を離れ、父のいた室町殿へと移り住み、親政の拠点として誇示しようとしました。

 

同年、義政と正室日野富子との間には嫡男がおりましたが、早世してしまいます。

富子はこれを乳母の今参局が呪詛したものであるとして彼女を流罪にして、追い落とし、富子は権勢をふるいました。

 

またこのころ寛正の大飢饉が起き、多くの餓死者を出したにもかかわらず、義政は邸宅の造営や酒宴におぼれ、天皇の警告さえも聞かない状況に陥っていました。

 

1464年、義政は富子との間で嫡子には恵まれなかったため、弟を足利義視と名乗らせて、次期将軍に決め、隠居を考えていました。

 

しかし1465年富子が懐妊し、足利義尚が誕生すると、富子は義尚を将軍に就かせたいと考えるようになり、山名宗全に支援を依頼します。

一方で義視は管領細川勝元と協力関係を構築。

 

もともと山名と細川は畠山家の家督争いの内紛で対立しており、この対立も絡んでいました。

 

山名がどんどん力をつけるのを見た細川は義政の邸宅を囲い込み、幕府軍だと認めるように脅し、義政も半ば投げやりにこれを認めてしまいます。

一方で山名はそれを見て、南朝系の天皇を自邸に招き入れて、「天皇軍」名乗るようになります。

 

こうした複雑な因果関係が絡み合うと同時に義政の優柔不断な態度が輪をかけて事態を悪化させ、1467年応仁の乱へと突入していきます。

 

以後、11年にわたって争いは継続され、京都は焼け野原となり、義政の花の御所も焼失してしまうのです。

 

結局足利義尚が将軍となりますが、実権争いをしたにもかかわらず、皮肉にも将軍の権威は失墜していくのです。

 

義政は晩年は義尚とも対立して、義政は東山殿に身を置き、政治とは離れて1482年に銀閣の建設を始めます。

 

しかし、義尚が1489年、六角討伐の陣中で死去すると義政がやむなく政務復帰をしようとしますが、富子の反対と自身の中風により断念し、亡命していた義視と和睦して、義視の嫡男を養子に迎えて将軍とするのです。

 

1490年、義政は銀閣の完成を待たずにこの世を去ります。

55歳でした。

 

むかちん

 

むかちん歴史日記447 日本の歴史小説で扱われた人物たち② 真言宗の開祖~空海

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今日は日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第二弾!!!

 

仏教を日本で興隆させた真言宗の開祖

 

空海(774-835)

 

を紹介します(((o(*゚▽゚*)o)))

 

Kobo Daishi (Taisanji Matsuyama).jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

 

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/412202076X

 

空海は774年、讃岐国(現在の香川県)に誕生します。

789年に15歳で、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足のもとで、論語、孝経、史伝、文章などを学び、792年には18歳で京の大学寮に入って、大学では明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを専攻しました。

 

793年、19歳のときに大学の勉強では飽き足らず、山林に入って修行をはじめ

24歳で儒教道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示しました。

空海はこの山林での修行の際に仏教思想を幅広く学んだものと考えられています。

(このあたりの足取りを示す史料が少なく、断片的にしか判明していない)

 

ちょうどこのころに空海は悟りを開いたとされ、土佐室戸岬(現在の高知県)の御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟で修業をしているときに、洞窟の中で空海が目にしたものが空と海だけであったことから「空海」を名乗るようになった、と言われています。

 

804年、長期留学の学問僧として唐へ渡り、当時、すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されていた最澄も同じ遣唐使の一行にいました。

 

長安に到着をした空海西明寺で精力的に学んだ後、青龍寺の恵果和尚を訪ね、教えを授かって、日本へと帰国します。

 

806年、九州に到着。在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺(ちくしかんぜおんじ) に住しました。

809年には朝廷の命により、高雄山寺に入住します。

 

ここで、真言密教を流布して、国家安泰を祈祷し、多くの僧侶が空海のもとを訪れました。

そして空海は歴代天皇の篤い帰依を受けて、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきます。

 

816年、高野山嵯峨天皇より賜り、その地で修法や著述に勤しみます。

835年、現在でも連綿で引き継がれる後七日御修法を修めます。

そして弟子たちに遺告を与え、逝去します。62歳でした。

 

むかちん