むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記396 母の日:歴史上の強い母親たち① 暴君ネロ帝の母親~アグリッピナ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(#^^#)

 

今日は、歴史上の強い母たちシリーズの第一弾!!!

 

ローマ帝国の暴君、ネロ帝の母親

 

アグリッピナ(15-59)

 

を紹介します😃

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%8A

 

暴君ネロの誕生まで

 

◆アグリッピナは15年に現在のドイツのケルンに誕生します。

彼女はアウグストゥスのひ孫、かつのちの皇帝カリグラの妹にあたります。

 

15歳で最初の結婚をし、ほどなく17歳のときに夫が他界。

17歳で貴族と再度結婚をして、22歳でのちの皇帝ネロを産みます。

 

このときに高名な占い師に占ってもらうと「この子はやがて皇帝となり、母を殺すだろう」と神託しました。

これにアグリッピナはたいそう喜んだとされ、「皇帝にさえなってくれれば、殺されたって構うものか」と言ったそうです。

 

ネロを産んだ3年後にまたしても夫が他界します。

 

アグリッピナは兄のカリグラ帝の側近を誘惑して、カリグラの暗殺計画を企てますが、カリグラに疎ましく思われ、孤島へ追放されます。

しかし、その翌年にカリグラ帝が暗殺されてしまうため、すぐにローマへ戻されます。

 

カリグラの次はクラウディウスが皇帝となりましたが、彼女の妻が何者かに刺殺されてしまうという事件が起こります。

これを好機とみたアグリッピナはクラディウスの側近に色仕掛けをして、皇帝ととりなしてくれるよう働きかけ、目論見通り、クラディウスはアグリッピナを妻に選びます。

 

こうして33歳にしてアグリッピナは皇妃の地位を手に入れるのです。

 

ネロを皇帝にするための執念

 

ここからアグリッピナはネロを後継の皇帝にするために暗躍します。

クラウディウス帝の3番目の妻との間の娘とネロを結婚させることを画策し、

もともといた婚約者を追放してしまいます。

 

ネロはクラウディウスとは家系的にもほぼ関係ない位置から深いところに入り込み、

そして後継皇帝の座を射止めることになります。

 

しかし、クラウディウス帝も周囲で起きている不穏な動きに気付き始めていました。

後継者を決め直すという動きもし始めたのです。

アグリッピナはなんと、クラウディウスを毒殺してしまうのです。

 

こうしてアグリッピナの執念により、ネロは皇帝の座につきます。

 

ネロとの確執とアグリッピナの最期

 

しかし、ネロが政治を行うにあたり、後見人である母の権力を疎ましく感じるようになります。

特にアグリッピナの情夫であったパルラスの専横には我慢ならず、ネロはパルラスを追放します。

 

これに激怒したアグリッピナはブリタニクスというクラウディウスと4番目の妻との間にできた子どもを、ネロを廃して皇帝につけることを画策します。

 

しかしこのブリタニクスはネロによって毒殺され、アグリッピナは次が自分であると悟ると息子を色仕掛けするという手に打って出ます(アグリッピナからすれば、そのくらいは朝飯前ですが・・)。

 

ネロも最初はこれを受け入れていたものの、次第に疎ましく感じるようになり、

アグリッピナを別の宮殿へ追放します。

 

政治の表舞台から姿を消したアグリッピナではありましたが、

ネロに不満をもつものを集めて隠れて会議をするようになります。

このクーデターはのちに発覚しますが、彼女は持ち前の口のうまさでなんとか切り抜けます。

 

そして、ネロの周囲からはアグリッピナを殺害すべきという意見が大勢を占め、

59年、ついに皇帝の近衛兵によってアグリッピナは殺害されます。

その際、アグリッピナは自らの腹を指して「刺すならここを刺すがいい。ネロはここから生まれてきたのだから」と言い放ったと言われています。

 

むかちん

むかちん歴史日記395 世界を代表する女性芸術家⑤ 作曲家として初めて成功したアメリカ人女性~エイミー・ビーチ

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今日は世界を代表する女性芸術家シリーズの第5弾!!!

 

創造的な作曲家として成功したアメリカ人女性

 

エイミー・ビーチ(1867-1944)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%81

 

◆エイミー・ビーチは1867年、アメリカ、ニューハンプシャー州に生まれ、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる、イギリスの国教会に反旗を翻して、アメリカに渡ってきた清教徒の家系でした。

また母親は結婚して断念したものの、それまでは優れたピアニストとして活躍していました。

 

4歳で即興演奏などを行うといった天才エピソードが残されており、6歳から母親の手ほどきを受けて、ショパンシューマンなどを演奏できるレベルになり、

1883年にピアニストとして正式にデビューします。

 

1885年、19歳のときに24歳年上のヘンリー・ビーチ博士と結婚します。

これに乗り気であったのは、母親だけで、しかも母親は音楽活動を自粛して、

家庭生活に重きを置くようにエイミーに強いて、エイミーもしぶしぶこれを受け入れます。

 

このように活動を制限された中で、エイミーは演奏よりも作曲活動の方に向かっていきました。

一方でビーチ博士は彼女に家事をほとんどさせなかったと言われていて、彼女の音楽活動に一定の理解を示していました。

 

1910年、ビーチ博士が不慮の事故で他界、翌年には母親も亡くなると、

一抹の寂しさを感じつつも、抑圧から解き放たれ、ピアニストとしての活動も再開しました。

 

そしてヨーロッパに渡航し、曲を披露して高い評価を受けました。

1914年第一次世界大戦が勃発して、アメリカへ強制送還されるまでの4年間、

ドイツを中心に演奏活動と外国生活を満喫します。

 

帰国してからも病で1930年に活動を自粛するまでは精力的に活動します。

そして、1944年、ニューヨークで亡くなります。77歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記394 世界を代表する女性芸術家④ 女性作曲家のパイオニアとなったピアニスト~ファニー・メンデルスゾーン

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今日は、世界を代表する女性芸術家シリーズの第4弾!!!

女性作曲家のパイオニアとなったドイツのピアニスト

ファニー・メンデルスゾーン(1805-1847)

を紹介します(*^▽^*)

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参照元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3

◆ファニー・メンデルスゾーンは、1805年にハンブルクユダヤ人上流階級の家庭にうまれます。

母方の一族は、バッハの次男のパトロンをしていたこともあり、メンデルゾーン一家には音楽が根付いており、
作法、語学教育なども厳しい指導を受けます。

ちなみに弟はかの有名なピアニスト、フェリックス・メンデルスゾーンで、弟は姉の才能を高く評価していたのですが、

女性が職業につくということがはしたないと言われてしまう社会であったので、なかなか表に立つこてとはありませんでした。

1838年にはピアニストとしてデビュー。
彼女の音楽活動を支えたのは、宮廷画家で夫のヴィルヘルム・ヘンゼルでした。

ヘンゼルは、彼女に自作の創作と発表を促し、その支えの甲斐あって、ファニーは意欲的に活動することができました。

ファニーの作品は弟のフェリックスの名の下に発表などされ、600曲近い作品を残したとされています。

実は現在も彼女の楽曲の全容は解明されていませんが、
近年、ファニーの音楽活動は再評価されようとしているそうです。

しかし、ファニーはピアニストとして弟フェリックスの楽曲を練習中に脳卒中で倒れ、帰らぬ人になります。

享年41歳。

むかちん

むかちん歴史日記393 世界を代表する女性芸術家③ 18世紀で最も著名な女性画家~エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

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今日は世界を代表する女性芸術家シリーズの第3弾!!!

 

18世紀で最も著名な女性画家として知られる

 

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%A7%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3

 

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは1755年に画家の娘としてパリで誕生し、親から最初の絵画教育を受けますが、様々な当時の画家たちからの助言を受け、強く影響を受けます。

 

彼女は10代の前半からすでに職業として肖像画を描いており、貴族の肖像画などを描きました。

マリー・アントワネット肖像画を描くために、ヴェルサイユ宮殿に招かれ、これを描くと、王妃は大変喜んだそうです。

そこから数多くの王族や貴族の肖像画を依頼されます。

 

1783年、当初、夫が画商であるという理由から反対を受けましたが、フランスの王立絵画彫刻アカデミーの会員になります。

この背景にはマリー・アントワネットが強固に推し、ルイ16世に圧力をかけたために、その他会員の反対を押し切ることができた、と言われています。

 

フランス革命が勃発すると、ルブランはフランスを逃れ、イタリア、オーストリア、ロシアで暮らし、画家として働きます。

ローマでは作品が絶賛され、ロシアでは貴族から歓迎を受けて、エカチェリーナ2世や皇族を多数描きました。

 

革命政府転覆後の1802年にルブランはフランスへ戻り、ヨーロッパの上流階級の肖像画などを描きますが、ナポレオン・ボナパルトとは途中で折り合いが悪くなり、一時スイスへ行きますが、王政復古すると、ルイ18世から手厚く迎え入れられ、フランスを安住の地にします。

 

晩年も旺盛に創作活動を続け、1842年に亡くなります。

 

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プロイセンのルイーズ王妃』(1801年)

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%A7%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3

むかちん歴史日記392 世界を代表する女性芸術家たち② ルネサンスを代表する女性画家〜ソフォニスバ・アングイッソラ

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今日は、世界を代表する女性芸術家たちシリーズの第二弾!!!

ルネサンスを代表する女性画家


ソフォニスバ・アングイッソラ(1532-1625)

を紹介しますヾ(=^▽^=)ノ


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参照元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%A9


◆ソフォニスバ・アングイッソラは1532年ごろにクレモナで7人姉弟の長女として誕生します。

4世代以上もカルタゴの歴史と深い関係を持ち、アングイッソラの家系は子孫たちに偉大な将軍ハンニバルに関係する名前をつけました。

アングイッソラの父は娘たちに芸術に関する高い水準の教育を受けさせました。
アングイッソラは地元画家のところで徒弟制度の下、絵画を学びましたが、
女性を画学生として受け入れる先例となりました。

1554年、25才のときにローマへ旅行して、スケッチをしていたアングイッソラは、助手の画家を探していたミケランジェロに出会い、彼女は偉大なる師匠から学ぶ機会を得ます。

彼女はミケランジェロから泣いている少年を描くように依頼されたときに、
彼女は『カニに手を挟まれて泣く子ども』を描き、ミケランジェロに見せます。
このときにミケランジェロは彼女の才能をさとり、アングイッソラはミケランジェロから多くのことを学ぶことになるのです。

しかし女性の芸術家はまだ社会的に制約を受ける時代でもありました。
女性が裸体を見ることは禁忌とされていたので、生を描くことはできませんでした。
従い、規模の大きな宗教画などを彼女が描くことはできなかったのです。

なので、彼女は自画像や自身の家族の肖像画などに新しい様式の可能性を探って行くことになります。

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参照元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%A9


アングイッソラはミラノでアルバ公の肖像を描いていた縁で、スペインの宮廷画家として招き入れられ、そこで多くの肖像画を描きます。

1571年に一度めの結婚をしますが、1579年に夫が他界、
1580年に年の離れた若いオラツィオ・ロメッリーノと結婚します。

ラツィオは妻の芸術を理解し、大々的に支援します。
その甲斐あって、アングイッソラはのびのびと芸術に専念します。
晩年は白内障となり、視力が弱ると、後世の芸術家たちの後援者となります

そして1625年、パレルモで93年の生涯を閉じました。

むかちん

むかちん歴史日記391 世界を代表する女性芸術家たち① 中世ドイツの女性預言者〜ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

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今日は世界を代表する女性芸術家たちシリーズの第一弾!!!

 

中世ドイツの神秘家で、女性預言者である

 

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1179)

 

を紹介しますヾ(=^▽^=)ノ

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3

 

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは1098年、当時、神聖ローマ帝国であったドイツで誕生します。

 

1106年にベネディクト系男子修道会の近くで隠遁生活を送る修道女に育てられます。

ユッタ・フォン・シュポンハイムというその修道女は、自身で女子修道院を設立します。

ユッタがなくなると、ヒルデガルトが院長に就任します。

 

1141年に神の啓示を受けたとし、『道を知れ』の執筆を開始。

自らの幻視体験を初めて公に公開します。

 

これがマインツ大司教のところにも話が入り、教会会議で俎上に上げられた際に、この『道を知れ』が披露され、多くの人に感銘を与えられます。

 

また、この頃から典礼用の宗教曲の作詞作曲を始め、「諸徳目の秩序」は作者が知られている曲の中ではもっとも古い部類に当たります。

 

ドイツ王国各地へ説教旅行も3回行い、1178年亡くなります。

 

むかちん 

むかちん歴史日記390 歴史に名高い天皇特集⑤ 明治以降の皇室で初めて一夫一妻制をとった〜大正天皇

新宿から歴史を発信!!!むかちんですヾ(=^▽^=)ノ

 

今日は、歴史に名高い天皇特集の第5弾!!!

 

激動の時代を生きた天皇

 

大正天皇(1879-1926)

 

を紹介します!!!+:。ヾ(o・ω・)ノ゜.+

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

大正天皇は1879年に明治天皇の第三皇子として誕生します。

生来、健康には恵まれなかったと言われています。

 

1887年9月に学習院に入学しますが、健康的に恵まれなかったことと

学習院の厳格な規則に馴染めず、留年することになります。

結局、1894年に学習院を中退し、赤坂離宮で個人指導を受けることになります。

 

1897年に貴族院の皇族議員となり、1900年に結婚します。

この結婚をした際に妻はまだ15才でありましたが、

両親から引き離されて寂しい幼少期を過ごした大正天皇にとっては嬉しい出来事だったようです。

 

結婚後、父の明治天皇とは違って側室を置かず、一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面があったと言います。

 

また皇太子としては史上最初に外遊を行い、大韓帝国を訪れます。

この時に皇太子、李根をいたく気に入り、朝鮮語を学び始めたと言います。

 

1912年明治天皇崩御を受けて、天皇に即位します。

しかし、明治天皇とは違い政治的判断は不得手でした。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発、日本もドイツに宣戦布告し、それが天皇を多忙へとどんどん追い込んでいきます。

 

大正天皇の病状はどんどん悪化していき、1921年、快方の見込みがないことから

皇太子裕仁親王を摂政に任命します。

 

1926年葉山御用邸にて崩御します。47才でした。

 

 

むかちん