むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記366 ちょっとお笑いになっちゃう歴史人物列伝① 歴史上最古のオオカミ少年~周の幽王

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日はちょっとお笑いになっちゃう歴史人物列伝の第一弾!!

 

歴史上最古のオオカミ少年と言われる周王朝第12代王の

 

幽王(前795-前771)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)

 

◆周の王、幽王は紀元前781年に王に即位します。

この幽王の時代に周の続行であった褒が周に対して罪を犯します。

その許しを請うために褒は絶世の美女を献上します。

 

この美女は褒姒といい、幽王は後宮に入ってきたこの美女を寵愛するようになります。

 

しかしこの褒姒は決して笑顔を見せない美女で、幽王はなんとかして彼女を笑顔にしようとあの手この手を尽くすのですが、なかなか叶いません。

 

そんなとき、峰火台の担当者が間違えて外敵が来たという狼煙をあげてしまいます。

それを見た諸侯たちが緊急事態だとして、王宮に駆け付けると、それは間違いだとわかり、みんな愕然とします。

 

この様子があまりにも滑稽だったのか、褒姒はくすりと初めて笑いました。

この笑顔があまりに美しく、幽王はこれに感激します。

 

しかしその後は結局褒姒はまた笑わなくなってしまったので、

幽王は仕方なくわざと狼煙をあげさせて、諸侯を呼び寄せて、また愕然とさせて、

褒姒のことを笑わせます。

 

これに付き合いきれなくなった諸侯は狼煙が上がっても王宮に駆け付けなくなりました。

 

そんな中、ついに本当の反乱がおきてしまうのです。

幽王には正妻がいましたが、褒姒に子どもが生まれると、あっさりその子を太子にしてしまいます。

 

これに不満を抱いた正妻の申一族は同じように不満を抱く諸侯や外敵の大戎と結託して、幽王に反乱を起こします。

 

このときに幽王は狼煙をあげますが、当然のことながら、誰しもが「またか」と思うわけです。

 

もはや誰も信じなくなっていたので、当然助けには現れず、幽王はあっさり殺害され、褒娰はとらえられ、その子どもは殺されてしまいます。

 

これによって周(厳密には西周)は滅亡します。

 

しかし、正妻との間の子がかくまわれていたため生き残り、

この子どもが平王となって東に遷都し、「東周」として国はかたちだけ残ることになります。

 

幽王はこのオオカミ少年のようなことが元で命を落とし、さらには国を滅亡させる結果になってしまったのです・・・。

 

これが歴史上最古のオオカミ少年と呼ばれる所以となります。

 

むかちん

むかちん歴史日記365 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち⑤ 日本国憲法下で最短の内閣総理大臣~羽田孜

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今日は、一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第5弾!!

 

非自民系の総理大臣にして、現行憲法下で最も短い在任期間の総理大臣となった

 

羽田孜(1935-2017)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E5%AD%9C

 

羽田孜は1935年に、朝日新聞記者を経て、衆議院議員となった父と、長野電鉄の創設者の娘であった母との間に生まれます。

 

1944年、戦争が激化したため、羽田は長野へ疎開。中学はそのまま長野で進学しますが、高校は東京の成城学園高校に入学し、大学も成城大学へ進学します。

 

大学卒業後は父と同じジャーナリズムへの道に憧れ、朝日新聞社日本経済新聞社などを受験しますが失敗し、父のコネで小田急バスに入社します。

 

1963年に衆議院議員である父が倒れたため、当初、受け継ぐつもりはなかったものの、

後援会からの要請を受けて、1968年に小田急バスを退職。

 

1969年に衆議院議員選挙で旧長野2区から自民党公認で出馬し、トップ当選を果たします。当初佐藤栄作率いる佐藤派に入り、その後、田中角栄田中派となります。

 

羽田は郵政政務次官を経て、農林政務次官となり、その後は一貫して農林行政に携わり、農林族議員として台頭します。

 

1985年には第二次中曽根改造内閣で、農林水産大臣として初入閣します。

このときに小沢一郎自治大臣として初入閣しています。

 

羽田は田中派の中堅議員として力をつけていきますが、

派閥の世代交代を意識するようになり、羽田は竹下登が結成した「創政会」に参加します。

竹下派結成の際には小沢や梶山静六などと並んで、竹下七奉行と称され、中曽根の後を継いで、総理となった竹下の1988年の改造内閣では、再び農林水産大臣となります。

 

宇野宗佑内閣を経て、海部俊樹内閣が成立すると、小沢一郎が幹事長に就任、羽田は党選挙制度調査会長に就任し、政治改革推進派の中核となります。

 

政治改革を標ぼうし、若手議員の信頼を得るが、羽田の主張する小選挙区比例代表並立制に対し、竹下派経世会)支配に反対している山崎拓加藤紘一小泉純一郎のいわゆるYKKが中心となって、海部内閣倒閣を図り、選挙制度改革は廃案に終わります。

 

若手議員は大きな敗北感にさいなまれますが、羽田はこれを叱咤し、政治改革は伏流として残り続けることとなります。

 

1991年宮沢喜一内閣が成立すると、羽田は大蔵大臣に就任します。

1992年、金丸信の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂騒動では、派閥会長をめぐって小沢一郎小渕恵三が対立し、羽田は小沢の側につきます。

 

そして、羽田は小沢や当選同期の奥田敬和渡部恒三らとともに羽田派(改革フォーラム21)を立ち上げ、代表に就任します。

 

1993年6月、宮沢首相が政治改革関連法案の成立を断念すると、羽田派は野党が提出した内閣不信任決議案に賛成し、自民党を集団離党、小沢らとともに新生党を結党し、羽田は党首に就任します。

 

これに伴い実施された衆院選では、羽田は新党ブームに乗っかって55議席を獲得。

新生党社会党公明党民社党社会民主連合日本新党新党さきがけ民主改革連合の8党派連立の非自民・非共産政権を作り出し、羽田の首班指名が有力視されましたが、日本新党代表の細川護熙首班指名することで一致します。

 

1994年、細川が金銭スキャンダルで電撃辞任すると連立与党は羽田を首班指名することで一致。

 

しかし、この最中に新生党日本新党民社党統一会派「改新」を結成すると発表、連立内にいた社会党は何も知らない状況で、行われたため、社会党委員長であった村山富市はこれに猛反発し、連立を離脱。

 

羽田内閣は少数与党での船出を余儀なくされます。

 

自民党内閣不信任決議案を提出し、羽田は解散に打って出るつもりだったとされますが、小沢との長い会談のあと、総辞職を選択します。

 

同年、自社さ連立政権の村山内閣が成立することにより、新生党は野党に転落し、新進党を結党。

その後、小沢との対立を経て、新進党を離党し、太陽党を結党して党首に就任します。

 

そして1998年、新進党が分裂してできた少数野党の数回の統合を経て、新・民主党が誕生し、初代幹事長に就任します。

 

そして2009年にはついに悲願の政権交代を実現。民主党政権が誕生します。

 

羽田は2012年の衆院解散で政界引退を発表し、2017年老衰のため、死去します。

82歳でした。

 

むかちん

 

むかちん歴史日記364 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち④ 軍事力を背景に一時皇帝にも即位した~袁世凱

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今日は、一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちの第4弾!!!

 

軍事力を背景に一時中華帝国皇帝にまで上り詰めた

 

袁世凱(1859-1916)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1

 

袁世凱は、1859年に官僚や軍人を多く輩出している指折りの名家に生まれ、若いころから非常に出世願望の強い人物でした。

 

官僚を志して2度科挙に挑戦しますが、いずれも一回目の試験に合格できず挫折。

そこで軍人になることを志し、1881年には李鴻章幕下の准軍に身を投じて、朝鮮にわたります。

 

朝鮮で起きた1882年の壬午の変、1884年の甲申の変を閔妃の要請の下、清朝に有利となるようにことを運び、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持つようになります。

 

袁世凱は日本排除の動きを見せていたが

1894年、日清戦争に清が大敗すると、李鴻章は責任を問われ失脚、袁世凱はここで軍事の近代化の必要性を痛感します。

 

袁世凱は軍の洋式化という任務を負い、

それに合わせた訓練と厳しい規律・統率によって、非常に評価の高い軍隊を作ることに成功します。

これが袁世凱の力の背景となる軍事力となり、のちの北洋軍となるのです。

 

1898年から清では戊辰の変法と呼ばれる康有為、梁啓超らを中心とした政治改革運動が起こり、袁世凱はこれを当初支持していました。

彼が志向する軍の洋式化にもマッチしていたからです。

 

しかし変法派の形勢がよくないとみるや、袁世凱は変法派がクーデターを起こそうとしていることを西太后に密告し、戊辰の政変によって変法派が駆逐されることになります。

ですが、袁世凱はこれによって長く西太后の信頼を得て、権力の中枢に留まるのです。

 

1901年、李鴻章袁世凱に北洋通商大臣兼直隷総督を引き継ぎ、北洋軍が誕生します。

袁世凱は政治的な地位も上がり、その他の有力者が亡くなったこともあって、権勢を強めていきました。

 

1908年、袁世凱が政治家として権勢をふるっていた光緒帝が亡くなり、宣統帝が帝位につくと、幼かった宣統帝に代わって、父の醇親王が政権を摂政として担当します。

 

親王は兄光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでいたため、袁世凱を真っ先に中枢から外し、さらには殺害する計画まであったが、それを未然にかぎつけで逃亡。

しかしすべてを失った袁世凱は失意の日々を過ごすことになります。

 

1911年辛亥革命が勃発し、革命派が優位に進むと、これを鎮圧できる人物は袁世凱のみと、彼を内閣総理大臣にして、鎮圧を命じます。

彼は自らは動かずに、一方で革命派と秘密裏に連絡を取りつつ、臨時大総統就任の言質を取り付けると、寝返って、朝廷の要人に政権交代を促します。

 

こうして1912年に清朝は滅亡します。

 

中央の元首が強権をふるうことで国がまとまるという思想の袁世凱に対し、

国民党の実質的指導者の宋教仁は議員内閣制を主張、これが中国では斬新で多くの国民から支持を受けるようになると、自身の権力に影響が出ることを恐れた袁世凱は宋を暗殺します。

 

袁世凱は資金を多くの国々から借款し、インフラ整備に努めましたが、

これに反対し、反乱した孫文らを軍事力で撃退し、彼らは日本へ亡命することになります。

 

そして1916年、皇帝に即位して、国も「中華帝国」と改めます。

 

これには予想以上の反発が起こり、

地方の軍閥は次々と反旗を翻し、足元の北洋軍閥もこぞって袁世凱を批判しました。

 

当初は傍観していた日本もこの評判の悪い状況をみるや、袁世凱を厳しく非難し、1916年しぶしぶ彼は退位することになります。

 

しかし一度失墜した権威を戻すことは容易ではなく、

失意の中、同年病死します。

56歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記363 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち③ フランス革命の恐怖政治~ロベスピエール

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今日は一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第3弾!

 

フランス革命後期に急進的な恐怖政治を指揮した指導者

 

ロベスピエール(1758-1794)

 

を紹介します。

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB

 

ロベスピエールは1758年フランス北部の街の弁護士の家庭に誕生します。

母が亡くなり、父が失踪するなど家庭環境で様々な困難があったものの、勉学に励み、

1780年奨学金を得てパリのリセ=ルイ・グラン学院を優秀な成績で卒業し、弁護士として開業します。

 

1789年、ロベスピエールフランス革命勃発直前の三部会が招集されると立候補して勝利を収め、議員としてパリへ赴きます。

 

まもなく発足した憲法制定議会では、ジャコバン派に属して演説力を高め、リベラル政治家として活躍します。

 

1791年、ジャコバン派を指導して政権を掌握、1793年にはルイ16世を訴追した国王裁判や処刑を主導します。

 

ロベスピエールは急進的に理想を追求し、フランス革命戦争も相次ぐ敗戦を喫していましたが、戦争継続を訴えました。

しかし、内乱など反革命勢力による抵抗に対抗する必要があったため、テルールと呼ばれる恐怖政治を導入し、対立勢力を次々と逮捕・粛清していきます。

 

しかし1794年、こうした容赦のない弾圧への反発が非常に強まり、ロベスピエールの立場が非常に悪くなっていきます。

ロベスピエールはこのころから非キリスト教化を進めて自らを至高の存在と定義するなど横暴が目立つようになります。

 

フランス革命戦争が好転し、国内も安定してきた1794年7月27日、反ロベスピエール派が彼を逮捕するというテルミドールのクーデターが起こります。

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB

※クーデターの様子

 

翌日、ロベスピエールを筆頭としたジャコバン派22名が処刑されます。

 

むかちん

むかちん歴史日記362 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち② あの織田信長を討ち取った家臣~明智光秀

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今日は一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第2弾!

 

あの織田信長を討ち取り「三日天下」と呼ばれた

 

明智光秀(不詳~1582)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20180608000026/1

 

明智光秀は生年不詳であり、生地も現在の岐阜県のあたりということが分かっているぐらいです。

 

光秀は美濃の国の守護・土岐氏に仕え、その後は土岐氏にかわり

齋藤道三に仕えるが、1556年に道三と義龍親子による争い・長良川の戦いで

道三側についた光秀は義龍の軍に攻められ、一家離散します。

 

その後は朝倉義景を頼りに10年間仕えたそうです。

 

1565年、室町幕府第13代将軍足利義輝が暗殺されると、その弟の義昭が織田信長を含む各地の武将に自分を征夷大将軍にするように促すよう要請します。

 

これの仲介者となったのが明智光秀とされていて、ここで義昭と信長を結び付けたようです。

 

その後、光秀は義昭と信長、両家の家臣となり、1568年に義昭の上洛に加わります。

このころから秀吉らとともに、信長の支配下の京都とその周辺の政務にあたり、事実上の京都奉行の職務を行います。

 

1570年には浅井長政の裏切りで、窮地に陥った信長を、秀吉とともに防戦して救い出している。

 

1571年には三好三人衆の四国からの攻め上りと当時に石山本願寺が挙兵すると、

光秀は信長と義昭に従軍して挙兵し、同年には比叡山焼き討ち部隊の中心実行部隊として武功を挙げます。

 

1573年、義昭が挙兵します。信長と対立したとされますが、

信長は将軍を重んじて義昭と講和交渉をして、成立する直前で松永久秀の妨害で破綻します。

 

義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上の滅亡を迎えます。

 

光秀は1575年から1579年に丹羽国平定を任され、これを平定、さらには丹後国も平定します。

これを信長は絶賛し、丹波国などを与えられ、34万石を領するようになります。

 

そしていまだにその理由など謎の多い、本能寺の変が1582年に起こります。

秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出発、途中で京都に引き返し、信長の宿泊していた本能寺を光秀軍13000人が取り囲みました。

 

信長は奮戦したものの、最期は自らで火を放ち、自害したとされています。

 

しかし、信長の遺体が発見されることはありませんでした。

 

本能寺の変の一報を聞いた豊臣秀吉は毛利と和睦して引き返し、

明智光秀との山崎の戦いを迎えます。

 

これに敗れた明智光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中で、落ち武者狩りの竹槍で深手を負い、自害したとされます。

 

むかちん

むかちん歴史日記361 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち①~武家政権を確立しようとした~平清盛

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今日は一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第一弾!!

 

平安時代末期に武士で初めて太政大臣の座についた

 

平清盛(1118-1181)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 http://rapt-neo.com/?p=26516

 

平清盛は1118年、伊勢平氏の頭領である平忠盛の長男として誕生します。

1129年、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任されます。

 

清盛は若いころは鳥羽法皇第一の寵臣、藤原家成の邸に出入りしていました。

1137年熊野本宮を建設した功により肥後守に任ぜられます。

 

忠盛の後継者候補として異母弟の家盛が急浮上してきましたが、

家盛が急死したため、清盛の嫡流としての地位は盤石なものとなります。

 

1156年、保元の乱という朝廷が後白河天皇側と崇徳上皇側に分裂して争う事態が起こり、ここで武士が駆り出されるようになります。

保元の乱では、後白河天皇側について勝利を収め、播磨守となります。

平治の乱でも清盛はその地位を上げることに成功し、また源義朝ら有力な武士がこの2つの乱を通して滅亡したので、清盛の地位は盤石なものとなりました。

 

二条天皇六条天皇に仕えて、その地位を盤石にし、

1167年にはついに武士で初めて太政大臣に上り詰めるのです。

 

これにより平氏の一族も次々と高い地位につくようになりました。

 

さらに清盛が勢いを増すのは、娘を天皇の后にしたからでした。

清盛の娘、徳子を高倉天皇の后にして、徳子がこどもを生むと

2歳にして安徳天皇として即位させてしまいます。

 

こうした平氏の独裁的なやり方に、不満を抱く武士が増え続け、

反乱因子が増えてくると、清盛もこうした不安材料を一掃すべく

寺院の焼き討ちなどを行います。

 

しかし反乱の種は次第に広がり

源頼朝を中心とした反乱軍は徐々に平氏の軍勢を打ち破り

打倒平氏が活発になっていくなか、

 

1181年、清盛は熱病で亡くなります。

 

むかちん

 

 

 

むかちん歴史日記360 ランチタイムに教えたい歴史上の暴君たち⑤ 朝鮮史上前例のない暴君~燕山君

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今日は、ランチタイムに教えたい歴史上の暴君たちの第5弾!!!

 

朝鮮王朝史上、前例のない暴君として知られている

 

燕山君(1476-1506)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://m.yxlady.com/Culture/201509/242609_2.shtml

 

◆燕山君は1476年に朝鮮王朝第9代国王成宗の長男として誕生します。

生母は尹氏で、この尹氏が非常に嫉妬深い人物であり、ヒ素を隠し持って後宮を殺害しようとしたり、成宗の顔に傷をつけたことにより、成宗の生母である仁粋大妃の怒りを買い、1482年、王命によって死薬の刑に処され、亡くなります。

 

その関係もあって、仁粋大妃は燕山君には度を越してつらく当たり、貞顕王后の産んだ後の中宗とは対照的な対応をとります。

 

こうした環境で育ったため、燕山君は頑固で独断的な性格になってしまい、

成宗も仁粋大妃もよくは思っていませんでしたが、1483年に王太子となります。

 

即位から時がたつにつれて悪行が目立ち始めて、

3度の粛正事件を引き起こしています。

 

また多数の妓生を連れて、遊興にうつつを抜かして、注意する臣下には、いさめる臣下たちに対して残酷な刑罰を下しました。

 

こうした暴挙が臣下の怒りを買い、彼らの離反をまねきます。

1506年に宮廷クーデターが発生し、燕山君は江華島に配流、燕山君の一族は斬首刑、女性は奴婢にされました。

 

配流から2か月後、燕山君は満30歳で亡くなります。

後継には成宗の次男で燕山君の異母弟である中宗が即位します。

 

 

むかちん