むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記236 歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズ① 歴史上初めての女性天皇〜推古天皇

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*´∀`*)

 

今日は歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズの第一弾!

 

歴史上、初めての女性天皇

 

推古天皇(554-628)

 

を紹介します♬

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

推古天皇は、第29代欽明天皇の皇女として誕生し、叔父に蘇我馬子などがおりました。

 

第30代の敏達天皇は異母兄でありましたが、のちに夫婦となり、

2男5女を儲けます。

 

585年、敏達天皇崩御。第31代に用明天皇が二年ほど皇位にありましたが、587年に崩御します。

その後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わると、泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位します。

 

しかし592年崇峻天皇蘇我馬子の指図によって殺されてしまうと、

先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われ、即位し、第33代の推古天皇となります。

推古天皇は時に39才であり、そして史上初の女性天皇となりました。

 

推古天皇は甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として置きました。

 

推古天皇は非常に頭脳明晰だったと言われ、

皇太子である厩戸皇子と大臣である蘇我馬子との間で巧みに勢力の均衡を保ち、

豪族の反感を買わないようにしていたと言われています。

 

馬子に対しても決して譲歩することなく、馬子が領地を要求してきたことに対しても

「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」

 

と諭したと言われています。

 

聖徳太子はこの公正な天皇の下で遺憾無く才を発揮し、

冠位十二階や十七条の憲法などを次々に制定し、法令・組織の整備を進めます。

 

また、推古天皇小野妹子を遣隋使として隋に派遣します。

以前にも中国に使節を送っていたが、日本が独立国家であることを示すという目的で

派遣するのはこの推古天皇の時代からでした。

 

また推古天皇は仏教の興隆に努め、馬子や聖徳太子と共に

斑鳩法隆寺の建立を行いました。

 

聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂し、推古天皇に献上します。

 

推古天皇は628年、崩御します。75才。

推古天皇大は阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されています。

 

尚、推古天皇は後継者の指名は避けたようである。

 

むかちん

むかちん歴史日記235 絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行⑤ アメリカを独立へと導いた初代大統領~ジョージ・ワシントン

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、アメリカを独立へ導いた合衆国初代大統領

 

ジョージ・ワシントン(1732-1799)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3

 

◆ワシントンは1732年、ヴァージニア州で黒人奴隷プランテーションを営む家庭に誕生します。

 

父はワシントンが11歳のときに他界し、14歳年上の長兄が彼の父親代わりを務めます。

長兄が父の遺産の大半を受け継ぎますが、ワシントンもフェリーファームという農園を引き継ぎます。

 

ワシントンは測量も学び、また1748年からは農園主としての経験も積み始め、

測量士として公的な役職にも就きます。

この資金を元に新たに農園を購入し、これがバージニア西部における資産拡張の始まりといわれています。

このころにヴァージニアの副総督にして、実質的な統括者であったロバート・ディンウィディと知り合います。

 

1754年、ワシントンはヴァージニア市民軍の大佐に任命され、オハイオ渓谷からフランス軍を排除するためにヴァージニア西部に砦を構築します。

 

当時のアメリカは主にイギリスとフランスが植民地をめぐって覇権争いをしており

ワシントンは一族がイギリスの家系でもあったことからイギリス側におりました。

 

このときワシントンはフランス軍の兵力の前に敗れ去り、交渉によってなんとかヴァージニアへ帰還しました。

 

1755年、イギリス対フランスの植民地争いであるフレンチ・インディアン戦争で、ワシントンはイギリス軍のオハイオ奪還に従軍します。

 

1758年、軍を退役、そこからはヴァージニアの農園主、および政治家として過ごします。

 

ワシントンは裕福な未亡人であるマーサと結婚し、彼はその社会的地位の向上に成功します。

またフレンチ・インディアン戦争の英雄として、さらには奴隷を100人以上所有する大土地所有者として、尊敬されるようになります。

 

1769年、タウンゼント諸法という一連の法律がイギリス帝国議会で決められると

アメリカ植民地はこれに反発、ワシントンはその指導的役割を果たします。

 

そもそもこのタウンゼント諸法はアメリカ植民地に対して、不合理な税金を課すような法律でした。

これは1770年に撤廃されたが、1774年、いわゆる「耐え難き諸法」と呼ばれる一連の法律がイギリス帝国議会で成立し、アメリカ植民地をさらに刺激します。

 

この法律はその前年のボストン茶会事件に対する締め付けでもありました。

この事件はイギリスの植民地政策に不満を持つ植民地の急進派がイギリスの貿易船に密航し、海に紅茶箱を投棄するという事件です。

 

このときに出た有名なセリフが「代表なくして課税なし」で、

当時、植民地は税を課せられているにも関わらず、イギリスの議会に代表を立てる権利がなかったのです。

逆に言えば、このころはまだ独立をしようと企図していたわけではありませんでした。

 

1775年、レキシントン・コンコードの戦いが勃発。

アメリカ独立戦争の火ぶたが切って落とされました。

 

ワシントンは大陸会議によって、植民地軍総司令官に任命されました。

 

途中で弾薬が足りなくなったため、フランスが植民地側を支援しました。

これには世界で起こっている英仏の覇権争いが背景にあり、植民地軍がイギリスに勝つことをフランスは望んでいたと言えます。

 

1776年、戦いの最中、アメリカは独立宣言をし、アメリカ合衆国としてイギリスと戦います。

1781年、フランス軍と協力して罠をはりイギリス軍を遂に降伏させます。

1783年、パリ条約によって、イギリスはアメリカの独立を承認するのです✨

 

1789年、アメリカで最初の大統領選挙が行われ、ワシントンは初代アメリカ合衆国大統領に就任します。

 

ワシントンは「無私の公僕」というイメージを大事にしたため、

合衆国からの俸給は拒否していましたが、結局、議会も強固に受け取りを主張したため、受け取らざるをえませんでした。

 

しかし、ワシントンは決してヨーロッパ宮廷のような華美なことはせずに

共和制者として適切であるように慎重に作法を重んじ、丁寧であったといわれています。

 

1796年、公式文書として「ジョージ・ワシントンの辞任挨拶」を発行し、

これはアメリカの政治的価値観に強い影響を与えます。

 

1797年大統領を辞任したのち、1799年、死去。67歳でした。

 

◆名言

ーーーーーーーーーー

約束を守ることを、常に頭に置いておきなさい

 

ーーーーーーーーーー

議論するときは、相手に言いたいことを言わせずにやり込めようとしてはいけない

 

ーーーーーーーーーー

人間の体は一晩くらい寝なくても決してまいるものではない

 

ーーーーーーーーーー

我々の進むべき道は、勇敢な抵抗か、卑屈な服従

 

ーーーーーーーーーー

中傷の最高の返答は、黙々と義務を遂行することである

 

ーーーーーーーーーー

正直は、常に最上の政策である

 

ーーーーーーーーーー

常に継続してやっていれば、素晴らしいことが出来るようになる

 

ーーーーーーーーーー

真の友情はゆっくり成長する植物である。友情と呼ぶにふさわしいところまで成長するには、度重なる危機にも耐え抜かねばならない

 

ーーーーーーーーーー

むかちん

 

 

 

むかちん歴史日記234 絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズ④ 天下統一を果たした~豊臣秀吉

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズの第4弾!!

 

戦国の世を統一した武将

 

豊臣秀吉(1537-1598)

 

を紹介します♪

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 

豊臣秀吉の出自については実は、まだ定まっておらず、

広く知られている説としては、父・木下弥右衛門の死後、母は竹阿弥と再婚するが、

秀吉と竹阿弥は折り合いが悪く、1550年、家を出て、侍になるために遠江国に向かったといわれています。

 

はじめは木下藤吉郎と名乗り、今川家の直臣、飯尾氏の下にいたがほどなく退転、

1554年ごろから織田信長に小者として仕えました。

そして次第に織田家の中で頭角を現していきます。

 

1561年、浅野長勝の養女で、杉原定利の娘、おねと結婚します。

秀吉は明智光秀らとならんで、織田家の有力な武将として名を挙げていきます。

 

1569年、毛利元就が九州で大友氏と交戦している隙をついて、出雲国奪還を目指す尼子氏の残党が挙兵すると、元就は信長に援軍を要請、信長はこれに応じ、秀吉を大将とした軍2万を派遣します。

 

秀吉はわずかで10日間で18城を落城させ、京へ引き揚げます。

 

さらに1570年、朝倉義景討伐に従軍、途中で浅井長政の裏切りにあい、挟み撃ちにあう状況に陥りますが、明智光秀とともにこれを退け、功績を挙げます。

 

このころ、名を木下から羽柴秀吉に改めます。

 

1573年、浅井氏が滅亡すると、秀吉は長浜城に入り、城主となります。

秀吉は人材発掘に力を入れ、旧浅井の家臣団や石田三成などを登用していきます。

 

1582年、主君織田信長明智光秀の謀反により、本能寺の変で自害します。

秀吉はこれを知るやすぐさま、京都に軍を返します。

 

山崎の戦い明智光秀と秀吉は衝突し、兵力で劣勢だった光秀は敗走、落ち武者狩りによって、光秀は討たれます。

 

信長亡きあと、遺領をめぐって、柴田勝家と対立、

秀吉は次々と織田家家臣を自身の手中に収めていき、勝家らも攻めて最終的には

柴田勝家も自害することとなります。

 

こうして秀吉は次々と実力者を葬り去っていきました。

 

1583年には大坂城を築城、この城は非常に豪華な城であったことから「三国無双の城である」といわれました。

 

秀吉はさらに織田家とそれに手を貸した徳川家康とも対立、

自ら攻略に乗り出し、和議を結ぶにまで至ります。

 

秀吉はここから、小田原、奥羽なども平定、

ついに天下統一を果たすのです。

 

1596年、秀吉はついに朝鮮出兵に乗り出します。

結局、膠着状態の陥り、援軍を出してきた中国の明と和睦します。

さらに大規模な進軍を行おうと計画していた矢先、

1598年に秀吉が死去、最後は日本の兵士は朝鮮から撤退することになります。

 

秀吉の死後は秀頼が継ぎますが、ここから徳川の天下取りへの動きが活発化、

関ケ原へと向かっていくのです。

 

◆名言

ーーーーーーーーー

敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ。

 

ーーーーーーーーー

主従や友達の間が不和になるのは、

わがままが原因だ。

 

ーーーーーーーーーー

一歩一歩、

着実に積み重ねていけば、

予想以上の結果が得られる。

 

ーーーーーーーーーー

負けると思えば負ける、

勝つと思えば勝つ。

逆になろうと、

人には勝つと言い聞かすべし。

 

ーーーーーーーーーー

いつも前に出ることがよい。

そして戦のときでも先駆けるのだ。

 

ーーーーーーーーーー

信長公は勇将であるが良将ではない。

剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、

柔が剛を制することをご存じなかった。

ひとたび敵対した者に対しては、

怒りがいつまでも解けず、

ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。

だから降伏する者をも誅殺した。

これは人物器量が狭いためである。

人には敬遠され、

衆から愛されることはない。

 

ーーーーーーーーーーーー

財産を貯め込むのは、

良い人材を牢に押し込むようなものだ。

 

ーーーーーーーーーーーー

降参した者を殺してはいけません。

 

ーーーーーーーーーーーー

やるべき事が明確であるからこそ、

日夜、寝食忘れて没頭できる。

 

ーーーーーーーーーーーー

むかちん

 

 

むかちん歴史日記233 絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズ③ 絶頂の教皇権で政治でも影響力を見せた教皇~インノケンティウス3世

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズの第3弾!!

 

教皇として絶大な力をふるった

 

インノケンティウス3世(1161-1216)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

 

◆インノケンティウス3世はイタリア中部のカヴィニャーノという町に生まれ、

コンティ家と呼ばれる彼の他に9人の教皇を輩出している、裕福な家で生まれました。

 

パリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学び、1190年、若くして枢機卿となり、1198年には教皇に選出されます。

 

1198年、インノケンティウス3世はローマ帝国領であったスポレート公国、アンコーナトスカーナ辺境伯への占有回復権を行使、

さらにはシチリア王フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ2世)の後見となります。

これらの土地はのちのローマ王オットー4世により教皇領となります。

 

彼は諸外国の王位継承にその権力をふるって介入していきました。

 

1208年ドイツのホーウェンシュタイン家の神聖ローマ帝国皇帝フィリップの勢力拡大を恐れて、

ヴィッテルスバハ家のバイエルン宮中伯オットー8世と計って、フィリップを暗殺します。

 

またローマ帝国の帝位継承争いにも介入し、ヴェルフ家のオットー4世の帝位継承を承認しますが、

オットー4世がイタリア南部に侵攻し、勢力拡大を図ると、1210年に彼を破門し、

フィリップ2世を皇帝に就けて、オットー4世を廃位させてしまいます。

 

このころのキリスト教社会では、キリスト教徒あらずんば人にあらず、という環境で

破門というのが一番恐ろしい行為でした。

 

イングランドでは国王ジョンとカンタベリー大司教の選任をめぐって対立し、ジョンを破門、ジョンは教皇に許しを得るため屈服します。

 

フランスでもフィリップ2世の離婚問題によりフランスを聖務停止にしてしまうなど

王権以上に教皇権を強いということを内外に示します。

 

そしてこの教皇権の強さを内外に示した言葉が第四ラテラン公会議で発せられた

教皇は太陽、皇帝は月」というフレーズです。

 

彼は皇帝以上の権勢を教皇として振るっていきました✨

 

しかしイスラム世界を制圧するための十字軍が後半期には反乱するなど

少しずつ陰りを見せ始めた部分もありましたが

彼は1216年、没します。

 

むかちん

むかちん歴史日記232 絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズ② 中国を初めて統一した皇帝・キングダムでも有名~始皇帝

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)

 

今日は絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズの第2弾!!

中国統一を成し遂げ、昨今はキングダムでも有名

 

始皇帝(紀元前259-210)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

http://www.bmy.com.cn/upload/images/2013/10/2702752925.jpg

 

◆誕生時の諱(いみな)を政といいます。

政の父で、秦の公子であった子楚は休戦協定の人質として、

趙に送られており、政も趙で誕生します。

 

子楚は秦の公子とはいうものの20人以上兄弟がおり、そして妾の子であったため、

全く秦の王など継承する可能性などなく、そして秦の昭襄王は休戦協定を破ってしばしば軍事行動を仕掛けていたため、

子楚はものすごく秦でも趙でも立場がない状況で、人質としてもほとんど無価値に等しかったので、

いつ殺されてもおかしくない状態でした。

 

そこに目をつけたのが韓の裕福な商人、呂不韋でした。

彼は秦で影響力を持つ工作を進め、秦の王、安国君の正室でありながら、子供がいなかった華陽夫人に大金を投じたり、子楚の交際費を出資するなどして、

子楚はこの呂不韋に大変感謝をし、のちの厚遇を約束していました。

そして、この呂不韋から譲り受けた妾の子供が政(のちの始皇帝)です。

 

政の祖父、安国君は太子となりますが、政の曽祖父、昭襄王は趙を攻めていたために子楚は処刑されかけましたが、

番人を買収して脱出に成功、しかし子楚だけ逃亡したため、政と母は隠れて生活することを余儀なくされます。

 

紀元前250年、昭襄王が亡くなり、安国君が孝文王として即位すると、

国際信義上、やむなく、政と母は秦の咸陽に送り返されることになります。

 

しかし孝文王が在位3日で亡くなると呂不韋の工作通り、子楚が王となり荘襄王として即位、呂不韋の丞相となるのです。

 

しかしこの荘襄王も3年で亡くなると13歳である政が即位、秦の実質的な政治はこの呂不韋が執行することになります。

 

しかしこの呂不韋ものち失脚します。

 

秦は強大な軍事力を誇り、韓と趙を滅亡に追い込み、

小国家であった燕は政を暗殺しようとしたが失敗、怒りを買い一族もろとも殲滅、

そして魏・楚・斉を次々に滅ぼして、ついに紀元前221年、春秋戦国時代にピリオドを打ち、39歳にして中国を統一します。

 

春秋戦国時代には王という尊称が乱立していたため、

政は新たな称号を求め、そして、「皇帝」と名乗り、自らを「始皇帝」とするようになったのです。

 

始皇帝五行思想(木、火、土、金、水)をもとに、春秋戦国時代前に力を持っていた周を「火」とすると、秦はそれを打ち消す黒色の「水」と考えており、

儀礼用衣服や皇帝の旗には「黒」を用いるようになります。

 

そして政治では郡県制を敷き、中央集権の徹底を行って、被支配国は独立国としての体を廃止、36の郡が置かれます。

 

またバラバラであった通貨を「半両銭」と呼ばれる通貨に統一、

道路や運河などの交通網も整備します。

 

始皇帝は紀元前247年に自身の陵墓も建設、壮大な規模で「始皇帝陵」としても知られます。

さらには北西の遊牧民族の侵入に備えて、万里の長城を建設に着手させました。

 

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参照元 

https://hotels.his-j.com/ct/tripiteasy/?p=1986

 

こうした始皇帝にも当然ながら死は訪れ亡くなります。

始皇帝の死後、中国はまたしても混乱期に突入していくのです。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーー

新しい世代が、当然の事として受け容れているものは忘れ易いものだが、古い世代の厳しい戦いの成果である。

 

ーーーーーーーーーーー

愛は、平和ではなく、戦争である。武器の代わりに、誠実を尽すだけで、それは地上における、最も激しい戦い、自我を捨てないとならない、戦闘である。

 

ーーーーーーーーーーー

歴史を読むのは楽しい、歴史を作るのは更に楽しい。

 

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むかちん

 

むかちん歴史日記231 絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズ① マケドニアの大王〜アレクサンドロス3世

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(〃^∇^)o_彡☆

 

絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズの第一弾!

マケドニアの大王にして東方遠征で次々に領地を拡大した

 

アレクサンドロス3世(前356-前323)

 

を紹介します(*´∀`*)

 

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参照元 

https://sekaishilibrary.com/alexanderthegreatcontents/

 

アレクサンドロス3世は、ギリシア神話の英雄、ヘラクレスを祖とする父親、フィリッポス2世とイピロスの女王の母親、オリュンピアスの間に紀元前356年に誕生します♬

 

紀元前342年、フィリッポスはアテナイからアリストテレスを家庭教師として招きます。

アレクサンドロスは彼を「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに最高の師として尊敬し、このときの学友がのちにアレクサンドロス大王を支えていくことになります。

 

紀元前338年、アレクサンドロス3世は父に従い、アテナイ・テーバイ連合軍とカイロネイアの戦いに初陣として出陣します。

この戦いでマケドニアの勝利に大きく貢献し、父フィリッポス2世ギリシアの覇権を握ります。

 

ここからペルシアへの東征を計画していましたが、フィリッポス2世は暗殺されてしまいます。

そして20歳のアレクサンドロス3世がその遺志を継ぎ、父の死後、混沌としていたギリシアの諸ポリス(小国家)を再び制圧します。

 

そしてマケドニア軍38,000を従えて、ペルシア制圧へ向けて東へ向かいます。

これが有名なアレクサンドロス3世による「東征」です。

 

紀元前334年、グラコニス川の戦いでペルシア軍に勝利、

紀元前333年、ついにイッソスでアケメネス朝ペルシアの王、ダレイオス3世の軍10万に遭遇、

イッソスの戦いが起こり、アレクサンドロス3世が勝利、彼の妻や子を捕虜にします。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B93%E4%B8%96

 

ペルシアから和睦の申し入れがありますが、アレクサンドロス3世はこれを拒否し、さらに進軍、シリア、エジプトを制圧します。

 

そこから再び東征を再開、アレクサンドロス3世の軍47,000は、紀元前331年、ガウガメラの戦いで、20万以上といわれたダレイオス3世率いるペルシア軍を破り、

これによってアケメネス朝ペルシアは滅亡を迎えます。

 

その後、ソグディアナとバクトリアを平定、

インド遠征をおこない、インド北東部パンジャーブ地方に侵入、諸民族を制圧しますが

兵の疲弊により、インド中央部にたどり着くことなく、やむなく退散し、

マケドニアの王都、バビロンに帰還します。

 

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参照元 

http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu07.html

 

アレクサンドロス3世は帝国を、ギリシアマケドニア、ペルシアの3地域に再編し、

ペルシア人マケドニア人の融和を進めます。

 

しかし、アレクサンドロスはアラビアの遠征を計画している途中で蜂に刺され、

10日間高熱をだした挙句に32歳の若さで亡くなります。

その後、息子で兄の間で、帝国の覇権争いが起こり、アレクサンドロスの帝国は崩壊へ向かっていくのです。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーー

私は一頭の羊に率いられたライオンの群れを恐れない。
しかし一頭のライオンに率いられた羊の群れを恐れる。

 

ーーーーーーーーーーー

人生はチャンスと変化に富んでいる。
そして最も栄えているときに、人は大きな不幸に見舞われる。
不幸は、本当の友人でない者を明らかにする

 

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むかちん

 

 

 

むかちん歴史日記230 秋といえばグルメ!もいいけどファッション🍁ファッションの巨匠たち⑤ ロレックス創業者〜ハンス・ウィルスドルフ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*´∀`*)

 

今日は秋といえばグルメ!もいいけどファッション🍁ファッションの巨匠たちシリーズの第5弾!!!

 

高級時計、ロレックスの創業者

 

ハンス・ウィルスドルフ(1881-1960)

 

を紹介します!!!

 

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参照元 

http://www.inlifeweb.com/reports/report_6408.html

 

◆ハンス・ウィルスドルフは1881年にドイツ、バイエルンで誕生します♬

ウィルスドルフは12才で孤児となり、19歳の頃にスイスの貿易会社「ラ・ショー・ド・フォン」に入社します。

 

時計の知識、および輸出の知識をそこで学んで知見を広げていき、

また彼のセンスの高さから同社において、重要なポジションを任されていくようになりました。

 

ここでウィルスドルフが気づいたのは、時計を作らなくても輸出すれば、

商売が成り立つということにいたり、彼は24歳の時に、ロレックスの前身となる「ウィルスドルフ&デイビス社」をロンドンに創業します。

 

まず、ウィルスドルフは懐中時計が主流の時代に腕時計に目をつけ、

エグラー社というムーヴメントを製造している会社から資本金の5倍の金額のムーヴメントを買い付け、時計を流通させます⏰

 

ムーヴメントというのは、車でいうエンジンのような部分で、時計が稼働するためにはコアとなる部分です(〃^∇^)o_彡☆

 

ただし、ウィルスドルフは単純にムーヴメントを買い付けるだけに止まらず

エグラー社に対して技術提供、改良点の指摘を行っていくことにより、

エグラー社のムーヴメントの精度は飛躍的に向上、

1910年には公式精度検定で「Class 1」を獲得し、その4年後には最難関と言われるキュー天文台での時計の性能検定において「Aクラス」を獲得します。

 

これによって、エグラー社は世界的に認められる企業となり、

この立役者こそがウィルスドルフでした😲

 

これによってウィルスドルフ&デイビス社も発展を遂げていきます。

 

1914年第一次世界大戦が勃発。

1915年、この「ウィルスドルフ」という社名がドイツの社名であったことから

イギリスへの輸出への影響を懸念したウィルスドルフは社名を時計の文字盤にも刻印しやすい「ロレックス」へと変更します。

 

ここからもウィルスドルフはさらに時計の改良を重ね、

ロレックスの三大発明と呼ばれる改良を遂げます。

 

1つ目は腕時計用の防水ケース「オイスターケース」。
2つ目はローターの自動巻きを実現した「パーペチュアル」。
3つ目が文字盤の3時付近にある小窓で日付を表示する機能「デイトジャスト」。

 

当時としてはどれもが初めての機能で、

ロレックスが腕時計の王者となる所以でした。

 

何よりロレックスの強みは自社製造によって発展したのではなく、

広告流通によって、企業を発展させてきたことでした。

 

それはこのウィルスドルフの経営手腕によるところが大きかったのです。

 

そして1960年、ウィルスドルフが亡くなります。

 

むかちん