むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記208 命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズ③ 戦地で献身的に看護をした女性~フローレンス・ナイチンゲール

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズの第3弾!!

 

危険な戦地で看護をし、医療改革をしてきた

 

フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB

 

ナイチンゲールはイギリスの裕福な家庭で生まれ育ち、

フランス語、イタリア語、ギリシア語やラテン語などの教育もうけ、

哲学や絵画など、あらゆる教育を受けていました。

 

しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民をみて、人に奉仕する仕事を志すようになります。

 

ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、

ここで看護の教育を受け、看護師を志すようになります。

 

ロンドンの病院に就職し、婦人病院長にもなり、当時は病院の召使程度に見られていた看護師への専門的教育の必要性を訴えます。

 

1854年クリミア戦争が勃発、

ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセルが前線の負傷兵の悲惨な扱いを報じると、世論が沸騰、ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍することを決めます。

 

当時、兵舎病院は極めて不衛生な状況で、現地の軍医は看護師が入ってくるのを拒否していたが、

ヴィクトリア女王からシドニー・ハーバード戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接自身に届けるように依頼、ハーバード大臣が病院にそうした張り紙をしたことから、

 

ナイチンゲールは大きな後方支援を得ることになります。

ナイチンゲールらの働きにより衛生状態は改善され、死亡率も下がります。

 

このときの働きから、ナイチンゲールはしばしば「クリミアの天使」といわれます。

 

クリミア戦争講和後は、帰国し、ナイチンゲールは数々の統計資料を作って、病院の改革に乗り出します。

ナイチンゲールのこうした働きから、彼女は統計学の先駆者と呼ばれ、

1859年にイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれ、後にはアメリ統計学会の名誉メンバーに選ばれました。

 

なお、ナイチンゲールはボランティアによる救護活動を行う常設組織の設立には一貫して反対している。

これは自己犠牲では長続きなどしないことを見抜いていたからであり、

「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉にも表れています。

 

また聖トーマス病院内に、ナイチンゲール看護学校が設立され、

同様の学校がイギリス国内に波及していき、現在に近い看護師養成体制が整い始めます。

 

彼女は37歳で倒れてからはほとんどベッドの上で過ごし、

1910年、90歳で逝去します。

 

◆名言

ーーーーーーーーー

天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者のことだ

 

ーーーーーーーーー

最後にいえるのは、自分に関わっている時間をどう使い、やりたいことを遂げるかは、すべてわたしにかかっている

 

ーーーーーーーーー

すべての物事は、それにつぎ込んだ努力にほぼ等しい成果があるものだ

 

ーーーーーーーーー

物事を始めるチャンスを、私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある

 

ーーーーーーーーー

人間は一生に一度きりではなく、一日ごとに気持ちを改めていかなければならない

 

ーーーーーーーーー

人に対する批判的な心をやわらげる最良の方法は、自分が批判している相手の役に立とうと努めることです。私自身の経験からそう申し上げることができます

 

ーーーーーーーーー

人生を生きるには、修練が必要である。「まずまずの目的、過ち多き行為、ぐらぐらしている意志」のうちに人生をうやむやに過ごしてはならない

 

ーーーーーーーーー

私の人生観は単純だ。すなわち目をそむけることなく人生と折り合っていくということだ

 

ーーーーーーーーー

価値ある事業は、ささやかな、人知れぬ出発、地道な労苦、向上を目指す無言の、地道な苦闘といった風土のうちで、真に発展し、開花する

 

ーーーーーーーーーー

人はその人が考えた通りの人生を生きる

 

ーーーーーーーーーー

馬鹿からの賛同は批判よりも迷惑である

 

ーーーーーーーーーー

才能は長い努力の賜物である

 

ーーーーーーーーーー

どんな仕事をするにせよ、実際に学ぶ事ができるのは現場においてのみである

 

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進歩し続けない限りは、 後退していることになるのです

 

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むかちん

むかちん歴史日記207 命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズ② 命を懸けて忠義を尽くした~石田三成

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズの第2弾!!

 

最期まで忠義を尽くした武将、

 

石田三成(1560-1600)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90

 

◆三成は1560年近江に生まれ、羽柴秀吉が信長に仕えて、近江長浜城主になった1574年ごろから父や兄とともに、秀吉に仕官します。

 

1582年、信長が本能寺の変で没すると、秀吉の天下統一が見えてくる状態となり、

次第に三成も頭角を現すようになります。

 

1585年、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任されます。

1586年、三成は秀吉から堺奉行に任じられます。堺を完全に従属させ、兵站基地として整備しますが、これがのちの秀吉の九州平定に役立ちます。

 

1596年、秀吉にキリシタン弾圧を命じられますが、三成はこのとき、極力捕まえるキリシタンの数を減らしたり、秀吉の怒りをおさめて、処刑されないように奔走したりなど

キリシタンに一定の恩情を見せます。

 

三成は秀吉の朝鮮出兵にも参加しています。

 

1598年、秀吉が没すると、息子の秀頼が継ぎます。

このころ、政務を担う三成ら文治派と軍務を担う加藤清正福島正則武断派で対立していくようになります。

武断派徳川家康に接近していき徳川は武断派諸大名とひそかに縁戚関係を結んでいきます。

 

これが明るみにでると、さらに対立は先鋭化の様相を見せます。

 

この派閥対立の仲裁を行っていた前田利家が亡くなると、

武断派七奉行による石田三成襲撃事件が起こります。

家康の仲裁で和談が成立するものの、三成は五奉行を退くこととなります。

 

そして徐々に家康が豊臣政権内部の実権を握るようになっていきます。

 

1600年、豊臣政権内部の対立が爆発し、関ケ原の合戦へと至ります。

毛利輝元を総大将とし、宇喜多秀家石田三成らで結成された西軍と

徳川家康を中心とした東軍が衝突します。

 

西軍であった小早川秀秋が早々に寝返ったため、西軍は崩壊

結局、三成は戦に敗れ、最期は徳川に捕縛され、斬首されます。

 

三成は若い時から死ぬまで豊臣家に忠義を尽くし、

豊臣家のために死んでいった武将でありました。

 

余談ですが、石田三成はその評価が良いものと悪いもので非常に分かれる武将です。

ある種、三成の影響力の大きさなのでしょうが、

三成の悪い噂の多くは江戸時代に記されているといわれます。

徳川の世になって、ある意味、悪役三成を討ち取った徳川、という世論形成だったのかもしれませんね(''Д'')

 

◆名言

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命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり

 

※これは石田三成が斬首される直前に語ったひとことと言われます。

三成は死ぬことを恐れているのではなく、自分の志を達成せずに死んでいくことが

悔やまれる、と言っているわけです。

 

この志とは勿論、徳川家康を討伐することだったに他なりません。

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むかちん

 

むかちん歴史日記206 命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズ① 19歳で命を賭したフランスのヒロイン~ジャンヌ・ダルク

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今日は命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズの第一弾!!

百年戦争のフランスのヒロイン、

 

ジャンヌ・ダルク(1412-1431)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF

 

◆ジャンヌは農業を営む両親の下に生まれ、神聖ローマ帝国領が近い、

現在のフランス東部の村で育ちました。

ジャンヌは「神の声」が聞こえる、とされていて、

彼女が初めてその声を聴いたのは12歳のころだとされています。

 

このとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、

大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、

イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたといわれています。

 

彼女は1429年、オルレアン近郊のニシンの戦いでフランス軍は敗れるという予言を的中させ、王太子シャルル7世のいる王宮を訪問することを許可されます。

(当時はイギリスとフランスの間で、いわゆる百年戦争の最中でありました。)

 

シャルル7世は崩壊寸前のフランスの中でジャンヌが希望に見えた、といわれていて、

彼女に騎士同様に甲冑などの武具を与えたそうです。

 

ここで論争になったのが、彼女が本当に神からの啓示を受けているのか、という点でした。

シャルル7世はジャンヌを疑うことは聖霊を否定することであると主張。

ジャンヌの神からの啓示に関する発言は真実であると認定しました。

 

ジャンヌがフランス軍を率いるだけの戦略家であったか、

という点については歴史家によって諸説ありますが、

 

ジャンヌの登場後、フランス軍がイギリス軍に対して快進撃を続けたという事実だけは一致しており、

彼女の存在がフランス軍を鼓舞させたことは疑いのないことであるようです。

 

ジャンヌが加わるまでのオルレアンでの戦いは非常に消極的なものでありましたが

ジャンヌが入ってからは一転、攻勢に転じ、イングランドに包囲されていたオルレアンを解放することに成功しています。

 

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参照元 

https://www.sekainorekisi.com/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E7%AF%84%E5%9B%B2/

 

ジャンヌはイングランドに支配されていた領地を次々に解放し、

彼女はフランス軍の中心的な存在になっていきます。

 

この連戦の勝利のより、シャルル7世は国王となり、

ノートルダム大聖堂で、フランス王としての戴冠式が行われました。

 

1430年、一時の休戦協定も終わり、ジャンヌは再びイングランド軍を攻めますが、彼女は捕虜となってしまいます。

当時の通例では、身代金を支払うことによって解放されるのですが、

ここで、シャルル7世は彼女を見放したといわれています。

 

ジャンヌの宗教的な異端審問が行われましたが、これは、政治的思惑が深く入っており、この裁判記録は多くが改ざんされていたり、イングランドに都合のいいものになっていました。

 

また彼女は文盲であったので、内容がわからないまま署名させられていました。

 

そして1431年、ジャンヌは火刑に処されます。19歳でした。

 

 

◆名言

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一度だけの人生、それがわたしたちの持つすべてだ。

 

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あなたが何者であるかを放棄し、
信念を持たずに生きることは、
死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。

 

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勇敢に進みなさい。
そうすれば総てはうまくゆくでしょう。

 

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私たちが戦うからこそ、神は勝利を与えて下さる。

 

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むかちん

 

むかちん歴史日記205 ランチタイムに見たいコメディアンシリーズ⑤ ドリフで一世風靡~荒井注

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今日はランチタイムに見たいコメディアンシリーズの第5弾!!

ドリフターズで人気を博した

 

荒井注(1928-2000)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://showa-g.org/men/view/211

 

◆荒井は立教大学文学部宗教学科中退後、二松学舎大学大学文学部国文学科を卒業し、脚本家を目指しながら、バンドマンも務めていました。

 

1964年、「トリスのおじさんみたいな顔した面白い顔をしたやつがいる」というのを聞きつけたいかりや長介が、荒井をスカウトしてドリフターズに参加。

 

担当楽器はピアノだったが、ロカビリーのスリーコードしか弾けなかったという逸話があります。

いかりやは著書で背の低さとピアノの実力をチェックしなかったミス、と言っていたが、この人選ミスによる荒井のふてぶてしいキャラがドリフの人気を押し上げました。

 

初期のドリフメンバーとして活躍し、「This is a pen!」のギャグは大ヒットとなりました。

 

コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが受け、

学校コントでは、「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」という設定でした。

 

中でも代表的なギャグ「何だ、バカヤロウ!」、「文句あるか!」、「何見てんだよ!」は流行語となり、

ソロ活動でも頻繁に使用され、このうち「何だ、バカヤロウ!」は、ピアノ担当なのに鍵盤が弾けない事を加藤茶にからかわれたときに言い返した言葉が発端だそうで、

これは今でも続くいわゆる逆ギレ芸の先駆けとも言えるギャグとなりました。

 

ドリフ在籍中の後半では、ハゲキャラでいじられました。

 

1974年にドリフターズを脱退。

芸能界を引退するといって脱退したものの、半年後に芸能界には復帰したため、

その後ドリフターズのメンバーと和解するのに3年を要したそうです。

 

ちなみに荒井の後任としてドリフターズに加入したのが志村けんです。

 

芸能界復帰後は主に俳優として活躍し、

2000年の富士フイルムのCMでは現役ドリフメンバーと一緒に毘沙門天役として出演を果たしました。

 

荒井が一人だけ早く撮影を終え現場を去る際に、いかりやと堅い握手と抱擁を交わし、その姿にドリフのメンバー・スタッフ一同は、いたく感じ入っていたといいます。

 

同年、肝不全のため、死去。71歳でした。

 

 

むかちん歴史日記204 ランチタイムに見たいコメディアンシリーズ④ 吉本新喜劇の巨星~岡八郎

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今日は、ランチタイムに見たいコメディアンシリーズの第4弾!!

 

吉本新喜劇の巨星、

 

岡八郎(1938-2005)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://www.amazon.co.jp/%E8%94%B5%E5%87%BA%E3%81%97%E5%90%8D%E4%BD%9C%E5%90%89%E6%9C%AC%E6%96%B0%E5%96%9C%E5%8A%87-%E5%B2%A1-%E5%85%AB%E9%83%8E-1-DVD/dp/B003BHXHYU

 

◆岡は1938年、兵庫県尼崎市で生まれ、父が喜劇役者であったため、幼少期から芸事に触れて育ってきました。

1958年宝塚映画に入りますが、1年で退社、1959年に師事していた花菱アチャコの勧めで吉本新喜劇へ第一期生として入門します。

最初は本名の市岡輝夫名義で舞台に上がっていました。

 

1960年、漫才に転向し、当時コンビを解消していた浅草四郎と組みますが、

1968年四郎が自殺します。

 

一時は吉本を離れますが、復帰し、新喜劇の座長を務めます。

 

その風貌から「奥目の八ちゃん」と親しまれ、

「くっさー」、「えげつなー」、「隙があったらかかってこんかい!」、「ガオーっ」等の定番ギャグを多数持ちます。

 

新喜劇においては、

昔ながらの大衆食堂の店主、工事現場の労働者などの役回りを演じ、

花紀京との掛け合いはとても人気を博しました。

 

舞台のイメージとは逆で、極度のあがり症であったことから、

飲酒量が増え、アルコール依存症となって、胃がん、急性膵炎、脳挫傷などを患い、

特に脳挫傷のあとは記憶障害になってしまったため、事実上の引退状態になりました。

 

しかし、本人の舞台への復帰の思いは強く、

2002年にはなんばグランド花月の舞台に立って、

弟子のオール巨人阪神との新喜劇や娘の裕子との父子漫才なども行います。

 

2005年、肺炎による呼吸器不全で死去。67歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記203 ランチタイムに見たいコメディアンシリーズ③ コメディアンにしてサイレント映画の大スター~ハロルド・ロイド

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今日は、ランチタイムに見たいコメディアンシリーズの第3弾!!

 

世界三大喜劇王の3人目!

 

ハロルド・ロイド(1893-1971)

 

を紹介します!!

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

 

アメリカで誕生したロイドは、子役時代から活躍し、

エキストラを経て、約200本の映画に出演しました。

 

1915年にロンサムリュークという不格好なキャラで売り出し、

1917年『ロイドの野球』で、ロイドのトレードマークでもある眼鏡のキャラクター「ザ・ボーイ」となります。

 

ドタバタが展開されるのが基本ではあるが、

観客が感情的に共感できる部分を多分に入れており、

それが人気を博しました。

 

驚いて「髪が総毛立つ」というギャグを、風を顔に当てて表現するなど、漫画的な映像表現を積極的に採り入れたりもしました。

 

1919年から、ロイドは短編から中長編の映画へと乗り出し、

ついに1925年には『ロイドの人気者』でチャップリンの『黄金狂時代』を興行成績で上回ります。

 

日本でもこの明朗快活なロイド喜劇は人気を博し、

巨匠小津安二郎にも影響を与えたとされます。

 

サイレント映画からトーキーシステムに移行していくなかで、

多くのスターが凋落をしていきましたが、

アクションが売りだったロイドもまた、ここで苦戦を強いられます。

 

しかし、彼は商才にたけていたため、自分のフィルムを手元に残して、

再びヒットする機会を窺っていたといわれます。

 

1952年にはアカデミー特別賞を授与されます。

 

晩年は趣味の写真工学の研究に励んだそうです。

 

1971年、前立腺がんにより、死去。77歳でした。

 

むかちん

むかちん歴史日記202 ランチタイムに見たいコメディアンシリーズ② アメリカの喜劇俳優~バスター・キートン

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今日はランチタイムに見たいコメディアンシリーズの第二弾ということで

アメリカの喜劇俳優

 

バスター・キートン(1895-1966)

 

を紹介します(*'▽')

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3

 

◆1895年、カンザス州の舞台俳優の両親の下に生まれ、キートン自身も子役として巡業に参加していました。

イギリスで公演するなど、海外巡業も経験していました。

 

1917年にニューヨークへ渡り、映画初出演を果たします。

キートンは1度も撮り直すことなく、撮影が終わったという逸話を残しています。

 

体を張りながらも、無表情で一途な役柄を特徴としたことから、

「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」というニックネームがつけられました。

他にも当時から「すっぱい顔」「死人の無表情」「凍り付いた顔」「悲劇的なマスク」などと呼ばれていました。

 

1920年代を中心に大変な人気俳優に上り詰めました。

キートンチャップリンハロルド・ロイドと並んで「世界三大喜劇王」と呼ばれます。

 

キートンの恋愛三代記』などは彼の出演する長編映画の代表作にもなりました。

 

1928年、キートンは自身で撮影所を持っていましたが、それを手放し、大手映画制作会社のMGMと契約をします。

しかし、キートンはMGMでの映画製作システムに対応できなくなっていました。

 

1933年までMGMで映画製作に取り組みましたが、徐々に仕事は衰退していきました。

映画も移行期で、サイレント映画が衰退し、トーキー技術が隆盛しており、

キートンがこれとマッチしなかったと評されることが多いようです。

 

MGMとのスケジュールをキャンセルする事態が続き、解雇されると、

酒量も増えて、アルコール使用障害に陥り、破産も経験しました。

 

いったんはハリウッドの一線からは退いたという見られ方をされていたキートンですが

脇役での仕事や原案の提供、ギャグの創作・指導などを行っており、

 

1950年代にはTVショーや、ヨーロッパでの舞台に迎え入れられ、

仕事に恵まれた時期になりました。

 

1957年には伝記映画『バスター・キートン物語』も公開されます。

 

1966年肺がんにより死去します。享年70歳。

 

むかちん