むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記191 世界中を熱くする音楽を生み出した偉人シリーズ① ロシアの巨匠~チャイコフスキー

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)

 

今日は、世界中を熱くする音楽を生み出した偉人シリーズの第一弾!

誰もが知る、ロシアの巨匠作曲家

 

チャイコフスキー(1840-1893)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 

 

1840年、ロシアのウラル地方で誕生したチャイコフスキー

幼少のころから音楽的な才能を示していたものの、両親は音楽家にさせる気はさらさらなく、彼を法律学校に入学させます。

 

1859年法律学校を卒業し、法務省で働きますが、チャイコフスキーはこの仕事には特に熱意なく、平凡に過ごしていました。

 

チャイコフスキーに転機が訪れたのは、

1861年の秋に知人からの紹介で音楽教育を行っている帝室ロシア音楽協会を知り、そのクラスに入学したことでした。

 

この音楽協会は1862年にペテルブルク音楽院に改組され、チャイコフスキーはここで本格的に音楽へとのめりこんでいきます。

 

1863年チャイコフスキーは音楽家になることを決意し、法務省を辞職。

当時としては珍しく高等教育を受けてからの音楽家への転身で、遅いスタートでした。

 

1865年にペテルブルク音楽院を卒業、モスクワで教鞭をとります。

1868年にはオペラ歌手と恋に落ち、婚約までするものの、翌年破局します。

 

1876年にはバレエの名曲『白鳥の湖』が完成する。

 

チャイコフスキーは全体的な傾向として、初演は不評であることが多いが、

その真価を見極められ、演奏されるうちに評価を上げていく作曲家でした。

これはおそらく、作品のもつ虚無感と不吉な終結によるものと考えられています。

 

彼の音楽は叙情的で流麗、メランコリックな旋律でありながら、

リズムの天才とも評されました。

 

その他の有名な曲に

『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』などがあり、

現在でもその人気は根強いものとなっています。

 

1893年チャイコフスキーは53歳で急死します。

皇帝アレクサンドル3世によって国葬が執り行われました。

 

◆名言

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インスピレーションは、怠けている者のもとには、
決してやってこないものである。

 

ーーーーーーーー

過去を悔やむ。
未来に希望を持つ。
そして現在に決して満足しない。
それが私のこれまでの人生でやってきたことだ。

 

ーーーーーーーーー

我々は常に働かなければならない。
そして、自尊心を持った芸術家は、
その気にならないという口実をもって、
自分の手を停めていてはならない。

 

ーーーーーーーーー

自分の気の進まないことをやりとげた人間のもとに、
インスピレーションがやってくると信じて、我慢を重ねるのだ。

 

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むかちん

むかちん歴史日記190 挑戦し続ける日本の経営者シリーズ⑤ 任天堂元社長~岩田聡

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)

今日は、挑戦し続ける日本の経営者シリーズの第5弾!!

任天堂元社長

 

岩田聡(1959-2015)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E8%81%A1

 

◆岩田は1959年に北海道で誕生し、

高校時代にヒューレット・パッカード社のプログラム電卓「HP-67」を購入、

その魅力に取りつかれ、プログラムを勉強し、自作のゲームも製作しました。

 

1971年、東京工業大学に入学した岩田は、コモドール社のホームコンピュータ「PET 2001」を購入、それを販売していた西武池袋本店のパソコンコーナーに通いつめます。

 

大学在学中にその西武の店員が株式会社HAL研究所の設立にかかわることになり、

店の常連であった岩田とその西武のパソコンコーナーで出会った友人は

HAL研究所でアルバイトとして働くようになり、岩田はそのまま正社員になります。

 

1983年、任天堂から「ファミリーコンピュータ」が発売されると

岩田はこれに強い関心を抱き、岩田は京都の任天堂本社に出向いて、仕事請負の申し出を行い、『ピンボール』や『ゴルフ』といったソフトのプログラミングを担当するようになります。

 

1992年、HAL研究所が経営危機に陥ります。

そこで「岩田が社長をするなら援助をする」という援助者が現れ、

1993年、岩田は代表取締役社長に就任します。

 

それまで、岩田は経営とは全く無縁の立場ではありましたが、

優れた経営手腕を発揮し、『星のカービィ』シリーズなどを開発、ヒットし、

経営を再生させます。

 

社長業をやりつつ、プログラミングも引き続き行い、

当初はタッチしていなかった『MOTHER2 ギーグの逆襲』が約4年の歳月を経ても完成せずに行き詰っていた際には、

開発現場に出向いて、半年で大枠を作り上げ、1年で完成させるという手腕を発揮します。

 

◆2000年、岩田はその経営手腕を買われ、任天堂に入社します。

2002年に任天堂社長に就任。

もともと任天堂は山内家の同族経営企業であったため、わずか入社2年目の岩田が抜擢されることは異例のことでした。

 

岩田はゲーム離れが進む中で、幅広くゲーム人口を拡大していく必要があると考え

その一環として2004年「ニンテンドーDS」を発売。

年末商戦期に投入されたこともあって、年末年始だけで150万台売り上げます。

 

翌2005年には、『脳を鍛える大人のDSトレーニング』は社会現象となり、略称の「脳トレ」は流行語として広く浸透しました。

 

2006年には家庭用ゲーム機「Wii」を発売。

また岩田自身が広告塔となり、任天堂のゲームを紹介する動画なども配信します。

 

 

2014年に胆管腫瘍が発見され、切除しますが、

2015年容体が急変し、そのまま逝去します。

満55歳でした。

岩田の死は世界でも大きく報道されました。

 

◆名言

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わたしは、ずっと前から、自分が誰かと仕事をしたら「次もあいつと仕事をしたい」と言わせよう、というのがモットーだったんです

 

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わたしはいつもそうなんですが、好きか嫌いかではなく「これは、自分でやるのがいちばん合理的だ」と思えば覚悟がすぐに決まります

 

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自分は、他の人が喜んでくれるのがうれしくて仕事をしている。それはお客さんかもしれないし、仲間かもしれないし、仕事の発注者かもしれないけど、とにかく私はまわりの人が喜んでくれるのが好きなんです。まわりの人が幸せそうになるのが自分のエネルギーなんです

 

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安心して「バカもん!」と言える人と、腫れ物に触るように叱らないといけない人がいるんですよね。で、これはねぇ、ものすごい差なんです。こちらから与えられる量も、その人が吸収できる量も、ものすごく変わってくるんですよ

 

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「いまよいとされているやりかたはほんとうに正しいのか」ということをわたしだけでなく会社じゅうの人がうたがってかかって、変わってゆく周囲のものごとに敏感であるように仕向けていかないといけない、と考えています

 

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リスクをとらないところには達成感はないですから……といってしまうと、根はバクチ打ちなのかなぁ

 

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逆にわたしはそういう批評家や評論家ではいたくないんです

 

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わたしが見つけた天才の定義があります。人が嫌がるかもしれないことや、人が疲れて続けられないような事を、延々と続けられる人、それが「天才」だとわたしは思うんです

 

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「本当にやりたそうにしてる人」に仕事は渡したいんですよね

 

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一般に、新しい提案に納得してすぐに動くのは、全体のせいぜい2割。6割が様子見、残りの2割は抵抗勢力に回るといわれていますが、新しいチャレンジに慣れているはずの社内でさえ、最初からその気になったのは2割強だったと思います

 

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このまま過去の延長線上で仕事を続ける限り、ゆっくり死ぬのを待つことになる

 

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むかちん

 

 

 

 

むかちん歴史日記189 挑戦し続ける日本の経営者シリーズ④ 挑戦する技術者~本田宗一郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は挑戦し続ける日本の経営者シリーズ第4弾!!!ということで、

誰もが知っている有名な経営者であり、技術者、

 

本田宗一郎(1906-1991)

 

を紹介します(*'▽')

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E

 

本田宗一郎1906年に鍛冶職人の父と機織りの母との間に誕生しました。

父親はのちに当時普及しはじめた自転車の修理や販売を扱う仕事も始め、

近所では評判の自転車店になりました。

 

高等小学校の卒業間近のころ、本田は自転車業界誌『輪業の世界』で、東京のアート商会の広告を見て、そこには自転車ではなく、"自動車・オートバイ・ガソリン機関の製作修理"とあったのを見ました。

 

本田は幼いころ始めた見た自動車に感激していたので、

彼はこのアート商会で働きたいと思い、手紙を出します。

 

1922年、本田はアート商会の丁稚小僧になります。

このアート商会の主人、榊原郁三氏はこの本田の働きぶりを見て目をかけるようになり

本田も榊原から経営や技術を学び取ります。

 

本田をレーシングカーの世界へ引き込んだのも榊原で、

1923年に榊原をリーダーにレーシングカーの製作が始まります。

 

1928年4月、徒弟奉公を終えた本田がアート商会浜松支店を開業します。

榊原が唯一のれん分けを認められての開業でした。

 

本田はそこでも才能を発揮し、「浜松のエジソン」と呼ばれるほどの発明家ぶりもみせ、修理工場の枠を超えた仕事をしていました。

 

1936年、修理業に飽き足らなくなった本田は、製造業への転身を模索しますが

当時、会社組織化していたアート商会の株主からは反対を受けました。

しかし彼はあきらめず、東海精機重工業株式会社を設立します。

 

本田はピストリング製造の研究をし続け、失敗を重ねながらも試作に成功し、

1939年にはアート商会をあっさり弟子に譲って、自分は東海精機重工業へ転身します。

 

1949年、本田は藤沢武夫と出会います。

彼らは出会って一瞬でお互いに持ち合わせていないものを感じ取ったといい、

これが技術の本田、マーケティングの藤澤という相乗効果を生み出すようになります。

 

藤澤が経営に参画したころ、

モーターサイクルの販売点数はおよそ300ほどしかありませんでした。

新参のHondaは委託販売だったのもあり、技術力はあったものの、

販売能力に乏しい状況でした。

 

しかしカブF型という大衆向けの商品が出たときに藤澤は一気にDMを自転車店に送り、

自転車店を流通網に仕上げました。

この藤澤の戦略でHondaの販売網が大きく変わりました。

 

本田にとって、大きな転換は1959年でした。

ニューモデル、スーパーカブの大量生産を開始し、世界最大のオートバイ工場を鈴鹿市に建設、月産3万台の生産体制を構築します。

 

同年、アメリカにも販売会社を設立。

当初は月間5000台にも満たないところから1984年には1000万台に達しました。

 

1983年、ホンダの社長を退きます。

1989年、本田はアジアで初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たします。

 

1991年、逝去。享年84歳。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーー

困らなきゃだめです。
人間というのは困ることだ。

絶対絶命のときに出る力が
本当の力なんだ。

人間はやろうと思えば、
大抵のことは出来るんだから。

 

ーーーーーーーーーーー

失敗もせず問題を解決した人と、
十回失敗した人の時間が同じなら、
十回失敗した人をとる。

同じ時間なら、
失敗した方が苦しんでいる。

それが知らずして根性になり、
人生の飛躍の土台になる。

 

ーーーーーーーーーーー

かけがえのない「若さ」も、
それを自覚していなければ

「豚に真珠」「猫に小判」で、
あってなきに等しい。

 

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こちらが悪ければ、
悪い人間が寄ってくる。

こちらが信用することによって、
信用される人間が生まれる。

 

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チャレンジして失敗を恐れるよりも、
何もしないことを恐れろ。

 

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悲しみも、喜びも、感動も、落胆も、
つねに素直に味わうことが大事だ。

 

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成功者は、
例え不運な事態に見舞われても、
この試練を乗り越えたら、
必ず成功すると考えている。

そして、最後まで諦めなかった人間が、
成功しているのである。

 

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日本人は、失敗ということを、
恐れすぎるようである。

どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、
最低なのである。

 

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むかちん

 

むかちん歴史日記188 挑戦し続ける日本の経営者シリーズ③ ゴム工業・自動車産業の発展に貢献~石橋正二郎

新宿から歴史を発信!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、挑戦し続ける日本の経営者シリーズの第三弾!

ブリヂストンの創業者

 

石橋正二郎(1889-1976)

 

を紹介します(*'▽')

 

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参照元 

http://www.ishibashi-foundation.or.jp/founder/

 

◆1889年に福岡で生まれた石橋は、久留米商業学校を卒業後、

病気療養中の父の希望により、兄とともに家業の着物などの仕立て屋を継ぎます。

 

兄が徴兵されてしまったため、実質一人で家業を担うことになった石橋は

仕立て屋では将来性が見えないというところから、足袋製造を専業とすることを決意します。

 

足袋製造は順調に拡大し、規格化された製品を大量生産するために、新工場を設立します。

 

石橋は経営や販売の近代化を進めたことでも知られ、

経営面では大量生産をしていたことから、多くの労働者を雇い入れる必要があったため

それまでの古い徒弟制度を廃し、給与制を導入します。

 

また、販売面ではそれまでサイズによって金額が違っていた足袋を一律価格にし、

効率よく販売できるシステムを整えました。

 

1918年には兄を社長とする日本足袋株式会社を設立。

四大足袋メーカーの一翼を担うようになります。

 

1930年には日本足袋にタイヤ部門が設立され、

1931年に「日本タイヤ株式会社」として分社独立化。

1951年には「ブリヂストンタイヤ」に社名変更し、現在のブリヂストンに至ります。

 

ちなみに石橋正二郎はのちの総理大臣鳩山一郎と知り合い、

鳩山の長男威一郎(のちの外相)に自身の娘安子を嫁がせます。

 

この威一郎と安子の間に生まれたのが

のちの総理となる鳩山由紀夫国務大臣も務めた鳩山邦夫です。

 

石橋は1976年満87歳で亡くなります。

 

ブリヂストンはその後も躍進を続け、2005年にはフランスのミシュラン社を抜いて

世界シェアトップになります。

 

◆名言

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気は長く持つが、行う時は気短でなければならぬ。

 

ーーーーーーーーー

私は朝早くから夜遅くまで、日曜も祭日もなく一生懸命に働いた。タイム・イズ・マネーを実行したので人の3倍くらいは仕事したろう。また、父からタバコや酒はのむなと言われて今日まで実行している。

 

ーーーーーーーーー

一生涯の目的を達成せんとする者は、いかなる固執も、障害も、目前の名利も介さず、忍ぶ、粘る、堅忍持久、終始一貫、最後の目的に突進することである。

 

ーーーーーーーーー

わざわいは口からと言う。言葉をつつしみ、自分の偉さを表そうとはせず、気取られなければかえって人に尊敬され、親しまれ、自分も楽しみが多い。威張り、虚勢をはる人は他からも嫌われ、孤立し、人望を失うに至る。

 

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むかちん

むかちん歴史日記187 挑戦し続ける日本の経営者シリーズ② 関東の鉄道の礎を築いた~五島慶太

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*'▽')

 

今日は、挑戦し続ける日本の経営者シリーズの第二弾!

東急の実質的創業者、

 

五島慶太(1882-1959)

 

を紹介します(#^^#)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E6%85%B6%E5%A4%AA

 

◆五島は1882年、農家の家庭に生まれ、父は製糸業に手を出して失敗していたため、

家計は苦しい状況でした。

五島は幼少期から向学心が強かったため、中学校卒業後、進学しようとしましたが、経済的理由により断念、村の小学校の代用教員をしていました。

 

しかし、向学心の強い五島は、のちに学費のいらない東京高等師範学校(現筑波大学)に合格し、進学します。

 

1907年、さらなる最高学府を目指して、東京帝国大学に入学。

同大学を卒業するころには29歳になっていたが、

 

当時、五島は外務大臣も務めていた加藤高明の息子の家庭教師をしていた関係で

加藤邸に居候させてもらっていたこともあって、加藤のあっせんで農商務省に入省します。

 

五島はのち、鉄道院で勤務することになりますが

官吏として働くことに嫌気がさしてきた最中、

 

武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、

鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合ってきたことが

五島にとっては渡りに舟となり、五島は武蔵電気鉄道の常務となります。

 

そのころ、実業家の渋沢栄一らが住宅地開発に乗り出して

東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入、

 

その住民に交通の便を提供するため、目黒駅と蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設すべく、荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)も設立したが、

素人ばかりであったため、うまくいかずに経営不振に陥っていました。

 

そこで、阪急の建設などで実績のある小林一三が事業を進めるようになりましたが

小林が多忙となると、鉄道院出身の五島が推薦されることとなり、

五島は荏原電気鉄道の専務も兼任することになります。

 

目蒲線の開通直前に関東大震災が発生、

都心から投げ出された人々が郊外に移り、目蒲線は一気に業績を上げます。

 

その資金で武蔵電鉄を買収、名前を東京横浜電鉄と変え、東横線を開通させます。

 

五島は阪急の小林の手法にならって、

デパート、娯楽施設を沿線に誘致する戦略をとり、

沿線の付加価値を高めていきました。

 

五島はさらにそれだけにとどまらず、大学の誘致に力を入れます。

当時浅草にあった東京工業大学を沿線の大岡山に移転させることに成功、

1929年には慶應義塾大学日吉台の土地をなんと無償提供して、日吉キャンパスを開校させ、さらに日本医科大学には武蔵小杉の土地を無償提供します。

 

東京都立大学東京府青山師範学校(後に東京学芸大学)も誘致し、

五島は鉄道沿線に学生の安定した乗客を確保することに成功したのです。

 

1933年には池上電気鉄道も買収、1934年には渋谷に東横百貨店を開業させます。

さらに渋谷の開発では競合であった玉川電気鉄道を買収、1939年には目黒蒲田電鉄(荏原電気鉄道から改称)が東京横浜電鉄を吸収し、逆に名称を東京横浜鉄道に改めます。

 

◆五島は三越の買収を狙い、東横と合併させようとしますが、

三井財閥三井銀行の東横への融資をストップしてこれを阻止、

三菱銀行も足並みをそろえたため、五島は三井・三菱と戦わなくてはいけない事態になります。

 

小林からも諭され、最終的に五島はこれを断念します。

 

五島は1934年、東京高速鉄道を発足、

1939年には東京地下鉄道の株を大量に買い、東京地下鉄の開通に尽力した社長早川徳次を辞任に追い込むと世間から激しい非難を浴びます。

 

しかし、1941年、佐藤栄作によって、無駄な競争の廃止を主張され、

帝都高速度交通営団営団地下鉄、現・東京地下鉄株式会社)に一本化されます。

五島は債券と化した株券の山を見て人知れず号泣したともいわれています。

 

1942年、五島は京浜電気鉄道小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄を発足させ、

さらに1944年には京王電気軌道を合併。

また、相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収め、俗に言う「大東急」を作り上げました。

 

このころ、五島は乗っ取り王として「強盗慶太」と呼ばれていました。

 

◆1944年、東条英機内閣の運輸通信大臣に就任。

終戦後の1947年に東條内閣の閣僚だったということで

連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受けました。

 

追放後もご意見番として事実上企業活動に参画しており、

大東急の分割にあたっても、積極的に東急の再建に取り組みます。

 

復帰後は東急の会長に再びつき、買収を進めるなど強盗慶太ぶりは健在で、

その後、箱根、伊豆への輸送や事業をめぐって、西武の堤康次郎らと激しく対立することになります。

 

1959年、五島は死去します。77歳。

 

◆名言

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事業場から墓地に直行したくないとは考えているが、事業こそ私の生命であるとも思っている。

 

ーーーーーーーーーー

孤独な者は、最も強い。

 

ーーーーーーーーーー

三昧ということが必要である。女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になる、すなわち「空」になるということが必要である。

 

ーーーーーーーーーー

昭和初頭の財界不況に遭遇し、私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。ときには社員の給与にも困難し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、皆断られて小雨の降る日比谷公園をションボリ歩いたこともあった。松の枝がみな首吊り用に見えて仕方がなかった。しかし、いまにして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった。

 

ーーーーーーーーーーー

ときにはやむを得ず、株買い占めという強硬手段をとらざるを得ないこともあったが、これは世間でいうように単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄(のちの東急電鉄)の社員を愛し、その老後の生活まで考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである。
【100社を超える会社を買収し、強盗慶太とあだ名をつけられたことについて語った言葉】

 

ーーーーーーーーーーーー

俺はその日のことはその日で忘れる主義だ。その日に決断のつかないことを、思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。

 

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人間は知と行だけではダメである。そこには必ず誰にも負けないという信念が必要だ。それには信仰で人間の意志というものを絶えず鍛錬していく必要がある。事業で成功するにしても、利殖するにしても、不可欠なものは信念である。【東京市長選に伴う疑獄事件で6か月間獄中生活を送った経験から得た哲学についての発言。大審院大日本帝国憲法時の最高裁)で無罪が確定した。】

 

 

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むかちん

 

むかちん歴史日記186 挑戦し続ける日本の経営者シリーズ① 三菱財閥創始者~岩崎弥太郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、挑戦し続ける日本の経営者シリーズの第一弾!!!

三菱財閥創始者

 

岩崎弥太郎(1835-1885)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E

 

◆岩崎は1835年に土佐で誕生します。

岩崎家は甲斐の武田家の系譜といわれ、家紋も武田菱に由来するという伝承もあるそうです。

 

岩崎は頭脳明晰で12歳で儒者の小牧米山に弟子入りし、14、15歳で詩歌の才能を発揮していました。

 

1854年に江戸へ行き、昌平坂学問所教授、安積艮斎(あさかごんさい)の門人になります。

猛勉強中であった岩崎ですが、父が酒席で庄屋と喧嘩となり、投獄されたことを知ると、帰国。

釈放を訴えますが、しつこかったのか疎まれ、岩崎自身も投獄されます。

 

このとき、牢獄にいた商人から算術や商法を学んだことが、岩崎のその後の事業経営に大きな影響を与えていきます。

釈放されるものの村を追放となり、岩崎は吉田東洋の少林塾で学び始めます。

ここで、後藤象二郎らと出会います。

 

岩崎が吉田東洋に目をかけられたきっかけとして、

後藤に与えた宿題で、後藤の回答が彼にしてはできすぎていると感じた吉田は後藤を問いただすと、正直に岩崎が代筆したものだと認めます。

 

ここから岩崎に目をかけるようになるのです。

 

1858年、井伊直弼日米修好通商条約に調印、その後、安政の大獄が起こりますが、

吉田は放免され、土佐の政治に携わります。

このときに海外の調査として長崎へ調査団を送る際にその一人に岩崎が選ばれました。

 

岩崎はたびたび長崎を訪れる機会が生まれ、ここで海外事情なども学ぶことになります。

 

1862年尊王攘夷派により、吉田東洋が暗殺されると暗殺した犯人を追いかけて大阪へ向かいますが、

当時京都、大阪は尊王攘夷派が勢いを増していたため、捕縛は不可能と判断、引き返します。

 

土佐藩後藤象二郎を中心に、土佐の品を江戸や長崎で売って、富国強兵を目指しますが、なかなかうまくいきませんでした。

そこで1867年に岩崎を抜擢、岩崎はここで欧州の各商社と渡り合い、事業家として腕を磨きます。

 

一方で1866年に坂本龍馬の仲介で、薩長同盟が成立。

岩崎は龍馬が設立していた海援隊経理担当となります。

 

1867年、龍馬が暗殺されると、海援隊は分裂、1868年解散しますが、

海援隊の事業を後藤が土佐商会として、岩崎が九十九商会として継承し、

岩崎のこれがのちの日本郵船や三菱商会に発展していくのです。

 

岩崎はその後、明治新政府の要人となった後藤から、藩札を政府が買い上げて、

藩札禁止令が出されるという噂を聞くと、

藩札を大量に買い占めて、禁止令が出されると、明治新政府に売り渡すことで

巨万の富を得ました。

 

現代で言えばインサイダー取引のようなものですが、

当時は特にそういった規制もありませんでした。

 

1871年廃藩置県となると九十九商会の経営は岩崎に一任されます。

海上輸送に非常に力を入れ、1873年に三菱商会と改称、

このときに三菱マークが誕生します。

 

これは土佐藩主であった山内家の家紋と岩崎家の三階菱の家紋を合わせて作ったロゴマークでした。

 

当時の海運最大手は日本国郵便汽船会社でしたが、非常に横柄であったため、

三菱商会のお客本位の対応は非常に喜ばれたそうです。

 

岩崎は笑顔のできない従業員に小判を見せて、お客様を小判と思え、と指導していたとか。

 

三菱商会は政府からの助成も受け、

さらには軍事輸送のほとんどを独占し、巨額の富を得ます。

船籍数も国内の71%を誇り、岩崎は「東洋の海上王」とまで呼ばれるようになりました。

 

東京海上保険にも出資し、輸送保険も手がけました。

 

三井財閥系も共同出資の輸送事業を開始、競争の激化の最中、

岩崎は亡くなります。50歳でした。

 

◆名言

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小事に齷齪(あくせく)するものは大事ならず。

よろしく大事業経営の方針をとるべし。

 

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国家的観念をもって

すべての経営事業にあたるべし。

 

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奉公至誠の念に

すべて寸時もこれを離るべからず。

 

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勤倹身を持し、

慈善人にまつべし。

 

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部下を優遇するにつとめ、

事業上の利益は、

なるべく多くを分与すべし。

 

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およそ事業をするには、

まず人に与えることが必要である。

それは、必ず大きな利益をもたらすからである。

 

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機会は、人間一生のうちに誰でも、

一度や二度は必ず来るものである。

それをとらえそこねると、

その人は一生立身できない。

 

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自信は成事の秘訣であるが、

空想は敗事の源泉である。

ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、

いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、

必ずこれを大成しなければならぬ。

 

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むかちん

 

むかちん歴史日記185 日本のノーベル賞受賞者シリーズ⑤ 素粒子物理学の基礎に貢献~南部陽一郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日はノーベル賞受賞者シリーズの第5弾!!!

2008年ノーベル物理学賞受賞の

 

南部陽一郎さん(1921-2015)

 

を紹介します!

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E9%99%BD%E4%B8%80%E9%83%8E

 

◆南部は東京で生まれ、関東大震災を機に福井へ転居。

高校3年のときに湯川秀樹に刺激を受けて、理論物理学の研究を志し、東京帝国大学へ入学します。

 

1945年、終戦後に南部は東京帝国大学理学部物理学教室に嘱託で復帰し、朝永振一郎のグループで研究をします。

1950年には朝永振一郎から推薦を受けた数人で大阪市立大学理工学部理論物理学のグループを立ち上げます。

 

その後、プリンストン高等研究所へ赴任、その傍ら、カリフォルニア工科大学でも研究を行います。

1954年にはシカゴ大学の核物理研究所に着任し、研究をします。

1960年代に量子色力学自発的対称性の破れの分野において先駆的な研究を行ったほか、弦理論の創始者の一人として知られています。

 

1970年にはアメリカ、

そして2008年には自発的対称性の破れの理論で、益川敏英氏、小林誠氏とともに

ノーベル物理学賞を受賞します。

 

南部の研究は素粒子物理学の基礎を築いたといわれ、

一部研究者からは湯川秀樹朝永振一郎以上の物理学者との評価もあります。

 

南部は2015年、急性心筋梗塞により逝去します。94歳でした。

 

◆名言

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私自身の経験からいえば大事なことは大きな夢をもつこと。そして自分の好きなことをやること。何より楽しむことが大事ですね

 

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物理学の法則は単純です。でもこの世界は決してつまらないものではない。理想的にできているのだと思います

 

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むかちん