むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記412 世界の偉大な思想家たち② 経験知や実験観察を重視した近代科学の先駆者~ロジャー・ベーコン

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、世界の偉大な思想家たちシリーズの第二弾!!!

 

理論だけでなく、実験や観察を重視した思想家、哲学者

 

ロジャー・ベーコン(1214-1294)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3

 

ロジャー・ベーコンは1214年にイギリスで誕生します。

当初は裕福な家庭でしたが、ヘンリ3世時代の政争に巻き込まれ、資産を没収、家族は追放されるという憂き目に遭います。

 

ベーコンはオクスフォード大学で学び、アリストテレスの著作について講義を行うようになります。

 

そしてフランシスコ会に入会し、同大学の教授にもなります。

 

この当時、フランシスコ会ドミニコ会という二つの新進の修道会があり、学問の世界で華々しい活躍を見せる人物が多く所属していました。

その中にいて、ベーコンの優秀さもまた注目の置かれるところとなります。

 

彼の授業では、実験や観察に重きを置かれたのが特徴でした。

 

ベーコンは神学研究の改革を訴えました。

概念の区分にこだわるのではなく、聖書そのものをもっと研究すべきととらえていたベーコンは、学者たちに原典を読むために必要なギリシア語やヘブライ語を学ぶことを求めました。

 

ベーコン自身は数か国語に精通していたのですが、

聖書やギリシア哲学の書の誤写・誤訳の多さに嘆いていました。

彼は先人たちをただただ後追いすることをやめて、非常に先見性のある見解を示しています。

 

数学・光学・化学などに関する記述も含まれ、顕微鏡や望遠鏡、飛行機などがのちに発明されることも彼は予測していました。

 

また彼はイスラム圏の学問も学び、ヨーロッパの学問の問題点にも気づいていました。

 

彼の学識の広さ、深さに興味を抱いた枢機卿から著作をまとめるように言われますが、

フランシスコ会の中で許可なく著述をすることは禁止されていたため、当初は断ります。

 

しかし、この枢機卿教皇クレメンス4世となると、禁令を無視してでも内密に著述することを求め、ベーコンは1267年に『大著作』を教皇に送るのです。

 

しかし1268年に教皇が亡くなると、後ろ盾を失ったベーコンは1278年にフランシスコ会内部で断罪され、アラブ思想を広めた疑いで投獄されます。

この幽閉は10年に及びますが、同郷のイギリス人貴族によって、釈放されます。

 

1294年、ベーコンは他界します。

 

 

◆名言

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人は賢明になればなるほど、ますます腰を低くして他人から学ぼうとする。

 

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むかちん

 

むかちん歴史日記411 世界の偉大な思想家たち① ギリシア最大の哲学者であり、万学の祖~アリストテレス

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今日は世界の偉大な思想家たちシリーズの第一弾!!

 

ギリシア最大の哲学者にして、万学の祖と言われる哲学者

 

アリストテレス(紀元前384-紀元前322)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9

 

アリストテレスは紀元前384年に当時、マケドニア支配下にあったトラキア地方のスタゲイロスという町で誕生します。

 

紀元前367年、17歳ー18歳くらいのときに、アテナイの上り、プラトン主宰の学園、アカデメイアに入門します。

 

紀元前347年にプラトンが亡くなりますが、これと同時期にアリストテレスは学園を去ります。

この理由には諸説ありますが、当時はギリシアで反マケドニア派が勢いづいており、マケドニアと縁深い、いわば在留外国人のような立ち位置にいたアリストテレスが残っていにくい状況だったのではないか、と推察されています。

 

その後は学友ヘルミアスの招きに応じて、アッソスの街へと移り、ヘルミアスがペルシア帝国に捕縛されると難を逃れて、レスボス島に移住します。

ここでは主に生物学の研究に勤しんでいたそうです。

 

紀元前342年、当時、13歳であったマケドニアの王子、アレクサンドロスの師となり、弁論術、文学、科学、医学、そして哲学などを教えました。

 

紀元前336年にアレクサンドロスが大王に即位すると、翌紀元前335年にはアテナイに戻って郊外に学園「リュケイオン」を建設しました。

この学園の歩廊をそぞろ歩き(逍遥)していたことから、彼の学派は逍遥学派と呼ばれました。

 

基本的に現存しているアリストテレスの資料はアリストテレスが講義を聴きながら書いたもの、もしくは自分用の研究に記述したノートをのちの研究者がまとめたものなので、

アリストテレスの考えていたこととのちの理解が異なっている可能性は高いとされています。

 

また彼の哲学には現在では多くの間違いがあることがわかっていますが、

ヨーロッパ社会では長きにわたり彼は権威づけられ、崇拝の対象とされてきました。

これにより、悲劇をこうむったのがガリレオ・ガリレイです。

 

逆にこの絶対的権威が崩壊したときに、近代科学が発展していきました。

 

彼の思想は誤謬などがあったとはいえ、かなり幅広く、「万学の祖」と呼ばれるようになりました。

 

紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、アレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく減退します。

これによりマケドニア人への迫害が起きたため、晩年は母方の故郷、エウボイア島に身を寄せ、その地で紀元前322年、62歳で死去します。

 

 

むかちん

 

むかちん歴史日記410 紙幣に登場してきた歴史の偉人たち⑤ 著書『武士道』が長年愛されている~新渡戸稲造

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今日は、紙幣に登場してきた歴史の偉人たちシリーズの第5弾!!!

 

著書の『武士道』が長年読み継がれていて、旧5千円札の肖像としても有名な

 

新渡戸稲造(1862-1933)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0

 

新渡戸稲造は、1862年に現在の岩手県盛岡市盛岡藩士の三男として誕生します。

家には西洋のものが多く、このころから新渡戸は西洋へ憧れを抱くようになり、学校に通う傍ら、かかりつけの医師から英語を習うようになります。

 

また巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから農学を志したと言われています。

 

叔父の勧めで新渡戸は東京へ上京して英語学校で英語を学ぶようになります。

 

13歳の頃、新渡戸は東大の前身の一つでもある東京英語学校に入学して学び、そこでのちの北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、互いに語りあっていくなかで、新渡戸は農学の道を本格的に志すようになります。

 

1877年、のちの北海道大学である札幌農学校に入学します。

彼は非常に硬骨漢であったようで、教授と論争して殴り合うほどに熱かったそうです。

 

札幌農学校は新渡戸が入る前までクラークがおり、多くはその影響でキリスト教に入信していました。

新渡戸もキリスト教の洗礼を受け、そして深い感銘を受けて、のめりこんでいきます。

 

農学校卒業後は上級官吏として、北海道庁に採用され、その後、創立間もない帝国大学(のちの東京大学)に入ります。

しかし、農学校と比較して、そのレベルの低さに失望して退学、1884年に米国へ私費留学をし、ジョンズ・ホプキンス大学へ入学します。

 

その後、札幌農学校助教授に任命されて、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学し、官費でドイツへ留学。

ハレ大学より農業経済学の博士号を得ます。

 

1891年、米国で結婚した妻とともに日本へ帰国し、教授として札幌農学校へ赴任しますが、夫婦ともに体調を崩したため、農学校を休職して、アメリカのカリフォルニア州で療養します。

 

この間にかの名著『武士道』を英文で書き上げ、ドイツ語やフランス語などに訳されて、ベストセラーとなり、米国大統領セオドア・ルーズヴェルトも感銘を受けたと言われています。

 

1901年、台湾総督府の技師に就任、1903年には京都帝国大学法科大学教授も兼ね、1906年には法学博士の学位も受けます。

また1918年には東京女子大学の初代学長も務めます。

 

1920年国際連盟の事務次長に就任。

1933年、日本が国際連盟脱退を表明、新渡戸はカナダで開かれた会議に参加していたが会議終了後倒れ、そのまま帰らぬ人になります。

 

享年72歳。

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参照元 https://item.rakuten.co.jp/yamabun-r/ba3a0028r/

 

むかちん

 

むかちん歴史日記409 紙幣に登場してきた歴史の偉人たち④ 日本を代表する蔵相~高橋是清

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今日は紙幣に登場してきた歴史の偉人たちシリーズの第4弾!!!

日本を代表する大蔵大臣として知られる

 

高橋是清(1854-1936)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85

 

高橋是清は、1854年に幕府の御用絵師の子どもとして、江戸で誕生します。

横浜のアメリカ人医師の私塾ヘボン塾(現・明治学院大学)に入り、海外へ留学するものの、アメリカ人貿易商によって渡航費などを着服された挙句、騙されて、オークランドに売り飛ばされて、奴隷同然の生活をおくらされることとなります。

このときに英語の会話と読み書きを習得したとされます。

 

1868年、日本へ帰国。

1873年、サンフランシスコで出会った森有礼の勧めで、文部省へ入省し、さらには英語教師もこなし、廃校寸前にあった共立学校(現・開成中学校、高校)で一時校長も務めます。

 

その間、官僚としても活躍しており、1884年農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整備しました。

 

1892年には日本銀行に入行し、1911年には日銀総裁に就任します。

 

1913年、第一次山本権兵衛内閣で大蔵大臣に就任し、この時に立憲政友会に入党します。

原敬内閣でも大蔵大臣に就任、原が暗殺された直後には、高橋の財政手腕が評価され、第20代内閣総理大臣に就任しますが、これは半年で瓦解します。

 

加藤高明内閣では農商務大臣に任命され、その後は政友会総裁を田中義一に譲って、政界を引退しようとしましたが、1927年に昭和金融恐慌が起こった際、田中内閣が発足、高橋は蔵相に請われ、就任します。

 

1931年、犬養毅内閣でも蔵相に就任。世界恐慌で混乱する日本経済を世界最速で、デフレから脱却させます。

 

五・一五事件で犬養が暗殺されると、臨時で総理大臣を務めたほか、斎藤実岡田啓介両内閣の下でも大蔵大臣に就任。

 

インフレの発生が起ころうとしていたため、これを抑えるべく、軍事予算の縮小を図ったところ、軍部から逆恨みされ、二・二六事件で将校に胸を六発撃たれ、暗殺されました。享年83歳。

 

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参照元 https://note.antique-coin.info/takahashi/

むかちん歴史日記408 紙幣に登場してきた歴史の偉人たち③ 自由民権運動の主導者~板垣退助

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今日は紙幣に登場してきた歴史の偉人たちシリーズの第三弾!!!

 

自由民権運動を主導した土佐藩

 

板垣退助(1837-1919)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9

 

板垣退助は、1837年に土佐藩上士の嫡男として、今の高知県に誕生します。

子ども時代はわんぱくそのものだったようで、そのためなのか、高知城下への禁足を命ぜられ、村にいたので、多くの庶民と交わる機会を得ます。

 

この親交がのちの自由民権運動へとつながっていると言われています。

 

1861年、江戸留守居役兼軍備御用を仰せつけられ、土佐藩から江戸へ向かうことになります。

 

板垣は尊王攘夷を唱え、土佐藩士としてはめずらしく一貫して武力討伐を主張していました。

1867年には脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎と会って、京都の料亭で武力討伐の議論を交わしました。

 

さらに中岡の仲介で、京都の小松帯刀邸で薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)とも武力討伐を議論し、ここで、薩摩と土佐間での軍事密約、薩土密約が結ばれます。

 

そしてついに1868年、戊辰戦争が勃発。

土佐勤王党の流れを組む隊士を集めた総督として、これを指揮し、東山道先鋒総督府の参謀として従軍します。

 

甲州勝沼の戦いでは近藤勇率いる新選組を撃破し、東北戦争では三春藩無血開城させるなど功績を上げます。

 

明治維新において功績を上げてきた板垣ですが、徹底して公正な価値観の持主であったため、

官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となってしまった会津藩の心情をおもんぱかって、名誉回復に努めることに尽力し、会津から土佐へ感謝の気持ちが送られました。

 

明治政府では要職を務め、参議になりますが、朝鮮の無礼に対し、西郷とともに征韓論を主張、これは穏健派の岩倉具視と対立し、征韓論は反故にされてしまうため、

憤慨した板垣や西郷は下野します。

 

民衆は板垣や西郷を支持し、これによって板垣や土佐派の官僚が自由民権運動を唱える契機となります。

 

1874年、愛国公党を結成。

高知に立志社の設立。

1875年には民衆の意見が反映される政治を目指して、議会制政治を目指し、自由民権運動に身を投じます。

 

1881年には10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成し、党首となります。

全国を遊説して回りますが、岐阜で暴漢に襲われ、ここで板垣が述べた「吾死するとも自由は死せん」というのが、のちに「板垣死すとも自由は死せず」と広まります。

 

1884年自由民権運動の激化により、加波山事件などの暗殺未遂事件も起き、自由党は一旦解散されます。

 

しかし1890年の帝国議会の開設後には、自由党各派をまとめあげ、立憲自由党を再興します。

 

1898年には対立していた大隈重信の進歩党と合同し、憲政党を組織して、日本初の政党内閣である大隈内閣で、内務大臣として、板垣は入閣します。

しかし、この内閣は内紛が激しく、4か月で総辞職し、1900年立憲政友会の創設とともに板垣は政界を引退をします。

 

そして、1919年、板垣は逝去します。82歳でした。

むかちん歴史日記407 紙幣に登場してきた歴史の偉人たち② 経世済民を目指して報徳思想を唱えた~二宮尊徳

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今日は、紙幣に登場してきた歴史の偉人たちシリーズの第二弾!!!


経世済民を目指して報徳思想を唱えた


二宮尊徳(1787-1856)


を紹介します(*^▽^*)

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参照元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3


二宮尊徳は現在の神奈川県小田原市の百姓の長男として誕生します。

父の利右衛門は、義父より13万石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かでしたが、散財を重ねていました。

1791年に南関東を襲った暴風で酒匂川が氾濫し、田畑も家も流失すると、一転貧しくなってしまいます。

1797年父が眼病を患ってからは、尊徳(金次郎)が生計を立てていくことになりますが、酒匂川の堤防工事への従事と、夜の草鞋づくりを行います。

父が亡くなり、1802年には貧しさで母が亡くなると、祖父の下に身を寄せることになります。

金治郎は、毎日あくせく働いていたのですが、夜に読書をすることが燈油の無駄遣いだと祖父に罵られます。

そこで金治郎は堤防にアブラナを植えて、そこから菜種油をとり、燈油として使いました。


金治郎は1806年、20歳で生家を再興し、地主・農園経営者を行いながら、小田原に出て武家奉公人としても働きます。


金治郎が小田原を名を挙げたのは過労の服部十郎兵衛の服部家の家政の建て直しを依頼され、五年計画で財務を立て直したことでした。

その後も村の荒廃からの復興などを行い
1833年天保の大飢饉が襲った際には、小田原の救済を行います。

1856年、3度目の病により70歳で亡くなります。

むかちん

むかちん歴史日記406 紙幣に登場してきた歴史の偉人たち① 拾円紙幣になった貴族~和気清麻呂

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紙幣に登場してきた歴史の偉人たちシリーズの第一弾!!!


拾円紙幣にもなった貴族


和気清麻呂(733-799)

を紹介します(*^▽^*)

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参照元 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82#/media/File:Wake_no_Kiyomaro_statue.JPG


和気清麻呂は733年に備前国、今の岡山県に誕生します。

764年に藤原仲麻呂が武力で政権奪取をしようとした藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側について参加、翌765年には、乱での功労により勲六等の叙勲を受けます。

766年、従五位下に叙爵し、近衛将監に任ぜられます。


769年、宇佐八幡宮の神官がその神託として、道鏡皇位に就かせれば、天下泰平になる、と奏上します。

称徳天皇はその神託を確認するために和気清麻呂を派遣します。

清麻呂は参宮し、宣命を読もうとした際、それを聞くことを拒まれ、不審に思った清麻呂が再度、託宣されていた神社の禰宜に問うと、「道鏡は排除すべき」という神託を言われます。

清麻呂はこれを戻って称徳天皇に報告すると、道鏡に継がせたいと思っていた称徳天皇は怒って、別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて、

大隅国流罪とします。


道鏡は流されている途中の清麻呂を暗殺しようとしたらしいのですが、これは失敗に終わったそうです。


770年に称徳天皇崩御して後ろ盾を失った道鏡は失脚、清麻呂は京に呼び戻され、復位し、豊前守に任じられて、官職に復帰します。

さらに781年に桓武天皇が即位すると、庶務に熟達していたことが評価され、実務官僚として高官に任じられます。

清麻呂は民政の刷新を行うと同時に『民部省例』20巻を編纂。

また784年に遷都してから10年の長岡京に見切りをつけて、平安京への遷都を桓武天皇に進言したのも清麻呂とされ、自身も建都事業に尽力します。

799年、享年67歳で亡くなります。

その後、清麻呂鎌倉時代末期の楠木正成などに並ぶ勤皇の忠臣とされ、戦前には拾円紙幣の肖像とされました。


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参照元 
http://mobile.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2017091800059/



むかちん