むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記314 意味不明を解明してきた学術的偉人達④ 化学の周期表をまとめた科学者~ドミトリ・メンデレーエフ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は意味不明を解明してきた学術的偉人達シリーズ第4弾!!!

 

みんな知ってる元素周期表を作り出した科学者

 

ドミトリ・メンデレーエフ(1834-1907)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95

 

ドミトリ・メンデレーエフはロシアの西シベリアで14人の子どもの末っ子として誕生します。

 

1849年に貧しい家族でサンクトペテルブルクに移り住み、1850年高等師範学校へ進学しました。

 

職を転々としながらも1865年、サンクトペテルブルク大学の員外教授に着任、のちに正教授となり、1869年にロシア化学学会で元素の周期表の論文を発表します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%9C%9F%E8%A1%A8#/media/File:Mendeleev%27s_1869_periodic_table.png

 

上図はメンデレーエフが一番最初に発表した周期表で、当時はこの順番を疑う者も少なくありませんでした。

しかし、彼が周期表に空欄を作って予言した場所に次々と新元素が発見されていき、その正確さが証明され、この周期表は高く評価されるようになるのです。

 

この功績を讃えて、101番目の人工元素は「メンデレビウム」と名付けられました。

 

彼の周期表の発見には逸話があって、

元素の原子量と化学的特性について考えこんでいたメンデレーエフは眠りに落ちてしまうのですが、

居眠りの最中に、すべての元素が原子量の順に並んだ表を夢の中で見ます。

彼は起きたときにこれを紙に書き起こし、周期表の発想に至ったとされています。

 

1890年、彼はサンクトペテルブルク大学の学生の奨学金の増額を文部大臣に要求しますがこれを拒否され、それに抗議して同大学を辞職します。

 

辞職したあとは海軍省の依頼で無煙火薬を研究して、1891年までにピロコロジオンを発明しますが、コスト面の問題があって、これが海軍で採用されることはありませんでした。

 

1892年、王立協会の外国人会員に選出され、同年に度量衡局の所長となります。

 

1906年ノーベル化学賞候補に選出されますが一票差で落選、翌年に死去します。

 

最近では彼の「石油の無機起源説」が再評価されています。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーーー

一生努力し続けること、それ以外を天才とは言わない

 

 

むかちん

 

むかちん歴史日記313 意味不明を解明してきた学術的偉人達③ 古代エジプトの解明に尽力~ジャン=フランソワ・シャンポリオン

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は意味不明を解明してきた学術的偉人達シリーズの第3弾!!

 

古代エジプトの文字を解明し、エジプト学の父と呼ばれる

 

ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790-1832)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3

 

ジャン=フランソワ・シャンポリオンは1790年にフランス革命の真っただ中にあるフランスに誕生します。

 

少年時代から語学的才能は非凡なものであり、9歳のときにはラテン語を話したそうです。

さらにはギリシア語、ヘブライ語も少年期に話せるようになりました。

 

同じ時期に、ナポレオンのエジプト遠征に参加し、数学者としても有名なフーリエが、シャンポリオンが語学を学ぶグルノーブルに県知事として着任、

 

フーリエはこの少年シャンポリオンに興味を持ち、

彼にヒエログリフ古代エジプト象形文字)を見せて、

まだ解読されていないものだと説明すると、

 

シャンポリオンは「私が読みます!2,3年たって、僕が大人になったときに!」と言ったとされています。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95

 

フーリエが見せたヒエログリフは当時、

ナポレオンがエジプト遠征をおこなった際にエジプトの港湾都市ロゼッタで発見された「ロゼッタストーン」に刻印されていたもので、

 

ロゼッタストーンには神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字の3種類の文字が刻まれていました。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%BC%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3

 

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参照元 

https://www.enopo.jp/2017-08-26-14-18-45/mobile-life-people/71-column/enopowatching/21156-2017-04-07-15-23-59.html

 

このときからシャンポリオンロゼッタストーンの解読研究が始まります。

 

1809年、グルノーブル大学の歴史学助教授になります。

ヒエログリフの解読はそれまでも多くの試みがありましたが、うまくはいかず、

 

それはヒエログリフを「表意文字」ととらえていたからだとされています。

シャンポリオンは1822年、このヒエログリフの解読に成功しますが、その成功のカギは一つ一つの文字や形には何の意味もない「表音文字」であることを理解し、

 

さらに彼は古代エジプト語をわずかに継承するコプト語や周辺の言語にも通じていたので、

 

ロゼッタストーンに刻まれた3文字の比較検討やその他材料をもとに

これを解読することに成功しました。

 

このヒエログリフの解読によって一躍有名となり、

1826年にはパリ王立博物館の館長に就任、1828年には念願のエジプト現地取材も敢行します。

 

1831年には、コレージュ・ド・フランス古代エジプト学教授となりますが、翌年コレラを患い死去します。

41歳でした。

 

ちなみにロゼッタ・ストーンは現在ではイギリスの大英博物館に所蔵されており、観光名所となっています。

 

むかちん

むかちん歴史日記312 意味不明を解明してきた学術的偉人達② 天文学の父~ガリレオ・ガリレイ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)

 

今日は意味不明を解明してきた学術的偉人達シリーズの第二弾!!

 

科学的手法の開拓者にして天文学の父と呼ばれる

 

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)

 

を紹介します(*‘∀‘)

 

 

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参照元 

https://wired.jp/2014/03/01/galileo-galilei-15-trivias/

 

ガリレオは1564年にトスカーナ大公国領ピサに誕生します。

 

1581年、ガリレオはピサ大学に入学しますが、

1585年に退学。

しかしユーグリッドやアルキメデスを学び、1586年には科学論文「小天秤」を発表します。

 

1589年、ピサ大学教授の地位を得て、数学を教えました。

 

17世紀前半ごろからガリレオの科学的な発見が行われます。

1609年、ガリレオは望遠鏡を用いて、月に凹凸があることを発見、1610年には木星に3つの衛星があることを発見し、

さらには金星が月のように満ち欠けすることも発見しました。

これは金星が太陽の周りを公転しているという確かな証拠となりました。

 

ガリレオで有名なのはやはり「地動説」を主張したことです。

 

地動説に言及したガリレオドミニコ修道会士ロリー二と論争となり、

ロリーニはローマ教皇庁に対して、ガリレオは異端であると主張します。

 

そして、ガリレオは宗教裁判にかけられることになります。

 

第一回裁判の直後の1616年にはコペルニクスの地動説を禁止する布告を出し、彼の『天球の回転について』は一時閲覧禁止となりました。

 

1630年にはガリレオが地動説の解説書『天文対話』を出版します。

 

1633年に2回目の裁判が行われますが、

ガリレオは有罪判決を受けます。

 

その後、「それでも地球は動く」と言っていたといわれています。(真偽は定かではありませんが)

 

彼の『天文対話』は1822年まで、禁書目録に指定されます。

 

この裁判には疑問点も多く、19世紀後半から検証も行われました。

 

しかし、この裁判が誤りであったと認められるのは

1992年、ガリレオが亡くなってから350年の時が経過して

ローマ教皇が謝罪します。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーー

見えないと始まらない。

見ようとしないと始まらない。

 

ーーーーーーーーーーー

人にものを教えることはできない。

みずから気づく手助けができるだけだ。

 

ーーーーーーーーーーー

どうして君は

他人の報告を信じるばかりで、

自分の眼で観察したり

見たりしなかったのか。

 

ーーーーーーーーーーー

むかちん

むかちん歴史日記311 意味不明を解明してきた学術的偉人達① 古代ギリシアが誇る天才~アルキメデス

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は 意味不明を解明してきた学術的偉人達シリーズ第一弾!!

 

古代ギリシア随一の物理学者

 

アルキメデス(紀元前287?-紀元前212)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%B9

 

アルキメデスに関しては、彼が没後、長い時を経過してから記された記述が多く、解明されていない部分が多いのですが、

 

彼は紀元前287年ごろにシチリア島シラクサという街で誕生しました。

 

彼は物理や数学の分野で様々な発見を行いました。

今回はエピソードを交えて、彼の発見を紹介したいと思います。

 

◆黄金の王冠

国王ヒエロン2世は金塊を渡して、金細工職人に王冠を作らせることにしたのですが、

 

王冠が納品されると、王は金細工職人が金を盗んで、その重量分の銀を入れてごまかしているのではないかと疑い始めます。

 

しかし、実際にそれを確認するためには、王冠を溶かして、ドロドロにして立方体にして、体積を比較するしか方法がありません。

 

困った王はアルキメデスに相談しましたが、アルキメデスにもすぐに回答は出せず、いったん、持ち帰ります。

 

彼が何日か悩んで風呂に入って考えていると、

水面が上昇して、水があふれました。

 

これを見たアルキメデスは体積を測るにはあふれた水の体積を計ればよいと気づきます。

 

これがアルキメデスの原理で、浮力の原理といわれるものです。

 

これにより、不正がバレた金細工職人は死刑に処せられます。

 

◆アルキメディアン・スクリュー

ヒエロン2世は巨大な船「シュラコシア号」の設計を依頼したといわれ、

規模的に浸水も無視できないと悟ったアルキメデスは、水を掻き出す仕組みとして、アルキメディアン・スクリューを考案します。

 

これは円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させることによって低い位置の水をくみ上げて上に持ち上げることができました。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%B9

 

これはねじ構造を初めて実用化した例で、

ねじ構造はアルキメデスのような天才にしか思い浮かばないとまで言われています。

 

 

◆その他

数学者としても力を発揮したアルキメデスは、

級数や放物線の面積、円周率計アルキ代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方など、現在にも生かされる数学の定理を考案しています。

 

また数々の武器を開発したことでも知られ、

シラクサの戦いにおいて、てこの原理を利用した投石機を開発しました。

 

◆晩年

紀元前212年、歴史家プルタルコスの説によれば、

第二次ポエニ戦争の際に、ローマのマルクスクラウディウス・マルケッルス将軍がシラクサを占領した際にアルキメデスは死んだとされ、

 

将軍は彼の評判を聞いていたので、絶対に殺すなという命令を出していたにも関わらず、

 

アルキメデスの家と知らないローマ兵が彼の家に押し入り、

名前を問うたところ、無視されたので、彼を殺した

とされています。

 

彼の最期の言葉は「図をこわすな!」

最期まで研究に没頭していたことがうかがえます。

 

むかちん

むかちん歴史日記310 世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズ⑤ カストロとともにキューバ独立へ導いた~チェ・ゲバラ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズの第5弾!!

 

カストロらとともにキューバ革命を戦った革命家

 

チェ・ゲバラ(エルネスト・ゲバラ)(1928-1967)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9

 

チェ・ゲバラというのはあだ名で、「チェ」はスペイン語で「やぁ」という意味で、

よく彼があいさつする際に「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と言っていたところから、面白がってつけられた呼び名です。

 

ゲバラは1928年にアルゼンチンで誕生します。

ペルー副王の末裔で経済的に恵まれた家庭で育ち、

両親はカトリックの保守的思想が主であるアルゼンチンの中では、比較的リベラルな思想の持主でした。

 

未熟児として誕生し、重度の喘息持ちで、その喘息は生涯彼を苦しめ続けました。

 

ブエノスアイレス大学で医学を学び、その在学中にバイクで南米を放浪して視野を広げたことと、マルクス主義に共感したことが、その後の彼の思想に大きな影響を与え、

 

1953年、大学卒業後にボリビア革命後のボリビアを旅行した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放されて、かつてないほどの自由な空気が漂っていることに、ゲバラは衝撃を受けます。

 

そしてグアテマラで医師を続ける最中、祖国ペルーを追われ、

グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・カデアと出会い、急速に社会主義へとのめりこんでいきます。

 

しかし、グアテマラグアテマラ革命とよばれるほど、急速に、それまでの独裁政権での腐敗やインディオ復権のための改革を進めいていたアルベンス政権が

 

アメリカの支援を受けたアルマスに倒されると、

武力による革命を本気で考えたゲバラへの暗殺令が出されたため、

 

カデアとともに怒りを抱いてメキシコへ亡命します。

このとき、メキシコで出会ったのがカストロで、カストロキューババティスタ独裁政権打倒の志に共感して、

 

共に戦っていくことを決意します。

 

当初は軍医としてキューバ革命に参加しますが、次第にリーダーシップを発揮し、

カストロに次ぐ、ナンバー2の地位となります。

 

1959年、キューバ独裁政権を指揮していたバティスタドミニカ共和国へ亡命し、カストロハバナへ入城、キューバ革命が成就するのです。

 

同年、ゲバラは通称使節団を引き連れて、日本を訪れており、当時の池田勇人通産相と会談を行っています。

 

このとき、ゲバラは広島を訪れたといわれ、原爆投下の資料などを見て、

アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語ったといわれています。

 

その後、ゲバラからキューバ国内でこの原爆投下の事実を伝えられ、キューバの教育で教えられるようになったそうです。

 

その後、国際的革命家としてコンゴ動乱に参加、

そしてボリビアへ移ったものの、ボリビア大統領令で拘束され、銃殺刑に処せられます。

 

享年39歳。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーーー

蓄財できるすべての黄金よりも、はるかに決定的でいつまでも続くのは、人民たちの感謝の念なのである

 

ーーーーーーーーーーーー

勝利に向かって限りない前進を。祖国か死か。かぎりない革命的情熱を込めて

 

ーーーーーーーーーーーー

大きな仕事をおこなうには、なにごとであれ情熱が必要だ。革命には、多くの情熱と大胆さが求められる

 

ーーーーーーーーーーーー

人は毎日八時間かそれ以上、商品として機能する。つまり比喩的に言うと、個人としては死んでいる

 

ーーーーーーーーーーーー

人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか

 

ーーーーーーーーーーーー

これからは良い事をされたら100倍にして返せ!その代わり嫌な事をされたら100分の1にして返せ

 

ーーーーーーーーーーーー

未来のために今を耐えるのではなく、未来のために今を楽しく生きるのだ

 

ーーーーーーーーーーーー

人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも人間とコミュニケーションをとるしかないんだよ

 

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むかちん

むかちん歴史日記309 世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズ④ ヴェトナム革命の指導者〜ホー・チ・ミン

新宿から歴史を発信!!むかちんです(≧∀≦)

 

今日は世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズの第4弾!!

 

ヴェトナム革命の指導者

 

ホー・チ・ミン(1890-1969)

 

を紹介しますヽ(*´∀`)/

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3

 

ホー・チ・ミンは1890年にフランスの植民地下にあったベトナムの貧しい儒学者の息子として誕生します。

 

父の影響を受けて「論語」などを好み、父に伴って、都のフエへ移住するとヴェトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになります。

しかし、在学中に農民の抗税運動に参加したことから、フランス当局に目をつけられ、

退学処分となりました。

 

その後、船の見習いコックとして働くようになったホー・チ・ミンは、1911年フランスのマルセイユへ行き、そこで初めての外国暮らしを経験します。

フランスの国内でも貧富の差があることなどを目の当たりにしたホーはここで大きな刺激を受けることとなりました。

 

ホーはその後、船員として世界各国を周り、1913年に英語を本格的に学ぶため、イギリスへ移住、1917年にはフランスへ戻りますが、同年に起きたロシア革命は彼に思想的な大きな影響を与えました。

 

1919年初頭、ホーはフランス社会党に入党。

同年、第一次世界大戦講和条約が交わされますが、ホーはヴェトナム植民地にもフランス本国同等の権利を与えるよう嘆願書を提出します。

これは採択はされなかったものの、ホーの存在は知れ渡るようになります。

 

1920年ロシア革命の指導者、レーニンの寄稿に感銘を受けたホーは、フランス共産党の結党に参加し、共産主義者となります。

しかし、ホーが望んでいたものは共産社会の実現ではなく、ヴェトナムの民族自決でした。

 

ただ、民族問題を第一に考えるホーは共産党内では異端の存在であり、中枢には入れずにいましたが、

国際共産主義運動の指導組織、コミンテルンが1935年に反ファシズムを採択すると、

民族問題は重要視されるようになり、ホーが主流となって行きます。

 

1939年、第二次世界大戦が勃発、1940年にはフランスがドイツに占領されると、ヴェトナム植民地は親独のヴィシー政権につきます。

 

大日本帝国ヴィシー政権の承認も下、ヴェトナムへ権益を拡大し、大日本帝国がヴェトナムの事実上の宗主国となると、

ホーは日本への武装蜂起を目指して準備を進め、軍備の弱かったヴェトナムは当時日本へ抵抗を繰り広げていた蒋介石に協力を求めます。

 

1945年、日本が敗戦すると、ホーは独立に向けた準備を進め、ヴェトナム八月革命の開始、ホーの率いるヴェトミンはヴェトナム全土を掌握して行きました。

そして「ヴェトナム民主共和国」の独立を宣言し、ホーは首相に就任します。

 

しかし、フランスをはじめ社会主義化を恐れたイギリスなど各国もヴェトナムの独立は承認しませんでした。

 

そこでホーは社会主義化を漸進的に進める方針に転換し、表向きは共産党を解散、

憲法も西欧式のものを制定します。

 

フランス政府は南部のコーチシナを分離させ、北側であるヴェトナム民主共和国と対立、第一次インドシナ戦争が勃発し、1954年にディエンビエンフーの戦いでフランス致命的なダメージを与えて、フランスを駆逐しました。

 

そこで結ばれたのがジュネーヴ協定でしたが、アメリカはこれに調印せず、南ヴェトナムに成立した親米国家ヴェトナム共和国を支援します。

 

そして、ヴェトナム共和国がジュネーヴ協定で約束された統一選挙をボイコットすると、民衆の反乱が起き、南ヴェトナム統一戦線(ヴェトコン)が結成されます。

 

ここにアメリカ軍と南ヴェトナム軍の激しい衝突が勃発し、1965年ヴェトナム戦争となるのです。

 

ホーはインドシナ戦争ほどの強い指導力を示すことはなかったものの、

人民を鼓舞し続けました。

 

そして、終戦への動きが始まった1969年に死去します。79才でした。

 

むかちん

 

むかちん歴史日記308 世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズ③ ハイチ独立の指導者〜トュサン・ルーヴェルチュール

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧∀≦)

 

今日は世界の独立指導者をめぐる旅行シリーズの第3弾!!

ハイチ独立の黒人指導者

 

トュサン・ルーヴェルチュール(?-1803)

 

を紹介します(〃^∇^)o_彡☆

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB

 

◆トュサン・ルーヴェルチュールは1739年から1743年の間にハイチで生まれました。

彼の父祖は祖父の代までは西アフリカのダホメ王国(現在のベナンに当たる)のアラダの首長でしたが、

 

父は捕らえられ、奴隷としてハイチに売られ、トュサンはその地で誕生します。

 

農園の管理者は幸いなことに比較的人間的な人物で、トュサンに読み書きを学ぶことを勧め、フランス語の基礎とラテン語を学びます。

 

また、父からは薬草の知識などを学んでいたため、トュサンの教育的水準は比較的高く、奴隷の中では比較的裕福な部類でした。

 

彼は熱心なカトリックの信者であり、質素で菜食主義者であり、結婚して11人の子どもを授かりました。

 

当時、このハイチはフランスの植民地下にあり、

1789年、フランス革命が勃発すると、1790年にハイチにも「自由・平等・博愛」のメッセージが届けられますが、プランテーション経営者はこのメッセージの効力を否定しました。

 

それにより、各地の農園で反乱が勃発、しかし、トュサンは当初、この動乱には加わりませんでした。そしてこの動乱は次々と弾圧されていきます。

 

反乱が拡大し、白人が奴隷たちに狙われるようになると、トュサンは彼の領主を逃し、自らは、反乱軍の中に入っていき、白人の自由主義者とは妥結するよう主張します。

 

そして逆に彼が、こうした黒人の反乱軍の指揮をとるようになっていきます。

 

フランス革命が拡大し、1793年にはフランスとスペインが戦争状態に陥ると、

黒人司令官たちはスペインを支持します。

 

そしてハイチでも熱病で疲弊するフランス軍に対し、反乱軍は次々と勝利を収めていきます。

1794年、フランス革命で成立したフランスのジャコバン派国民公会はフランス全領土の奴隷制の廃止を決めました。

 

一方で共にフランスと戦っていたイギリスやスペインは奴隷制の廃止までを認めることはなかったため、

トュサンはフランスに寝返ることを決めます。

 

トュサンは黒人たちから尊敬を集める人物となっていました。

そして彼が特徴的なのはプランテーション経営者をハイチに戻したことです。

彼は人間というものは自然に生きると怠惰である、ということを知っていました。

 

ある程度の強制も必要である、と悟っていたのです。

 

しかし、以前のように鞭打たれることはなく、法的には平等に扱われます。

 

さらにトュサンはスペイン領、サン=ドミンゴに転じ、奴隷を解放します。

そして、植民地独自の憲法を起草し、全イスパニョーラ島に自らの権限を打ち立てました。

彼は「黒いナポレオン」と呼ばれるようになります。

 

しかし、フランスのナポレオンの軍はトュサンを捕縛し、彼と彼の家族をフランスへ送ります。

彼はフランスの地で1803年に亡くなります。

 

むかちん