むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記223 世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズ③ 政治理論の礎を築いた~マキャヴェリ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズの第3弾!

 

現実的な政治理論を展開し、礎を築いた

 

マキャヴェリ(1469-1527)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA

 

◆1469年、マキャヴェリはイタリア、フィレンツェで誕生、彼の家は要職を幾人か輩出している名家の家柄でした。

ただ、父は弁護士ではあったが、裕福でもなく、いわゆる中流階級の家庭でマキャヴェリは育ちます。

 

1498年、マキャヴェリピエロ・ソデリーニ政権下の第2書記局長に選出され、

同年には「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命されます。

 

この十人委員会からの依頼でピサ問題についての論考をマキャヴェリは記します。

当時、ピサは海洋国家の一つで、海を持たないフィレンツェが自由になるためには

このピサをフィレンツェが領有することが必要である、とマキャヴェリは論じています。

 

1499年、フィレンツェはピサ侵攻をするが、マラリアの発症により傭兵が撤退し失敗、

次にフランスのルイ12世がミラノを占拠したので、フィレンツェは同盟を結び、多額の金を支払って傭兵を借りるが、これが全くいうことを聞かず、

またしてもピサの占領に失敗します。

 

この経験からマキャヴェリは傭兵に頼らない、国民軍の創設というのが彼の思想になっていきます。

実際、彼は国民軍を創設するものの、期待された成果を挙げることはなく、

彼が仕えたソデリーニ政権はメディチ家復権を図るハプスブルク家に屈し、

マキャヴェリは役職を解かれます。

 

さらに1513年、ジョヴァンニ・デ・メディチ新政権下起こったボスコリ事件に関与していた疑いで、マキャヴェリは拷問を受けることになります。

 

このボスコリ事件はメディチ家の要人を暗殺しようという計画が露見した事件で主犯格は処刑され、マキャヴェリも関与していたのでは、と疑惑がかけられましたが、

現在の研究では彼が関与していなかったことがほぼ確実視されています。

 

ジョヴァンニ・デ・メディチ教皇に選出されたことにより大赦によって、マキャヴェリは釈放されますが、

彼はそこから山荘での隠遁生活が始まり、昼は農業、夜は執筆活動にいそしみます。

 

執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、喜劇は大好評を博して著作家としての名声を得ました。

 

このころに執筆を始めたのが、かの有名な『君主論』です。

 

1516年、たジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられ、

そこで献上したのは『君主論』です。

 

この『君主論』には混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いています。

歴史上の失敗事例などを引き合いにして、統治のあり方を説いたいわば実用書のようなものでした。

 

メディチ政権下で顧問のような存在として、マキャヴェリは扱われるようになりますが、メディチ家が失脚すると、マキャヴェリも一緒に追放されることになります。

 

これは一貫した共和制主義者からはマキャヴェリメディチ家にすり寄った裏切り者に映ったのが大きく、

マキャヴェリは失意のなかで、58歳で亡くなります。

 

 

むかちん

 

 

むかちん歴史日記222 世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズ② 浄土宗の開祖~法然

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズの第2弾!

浄土宗の開祖

 

法然(1133-1212)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6

 

法然は1133年に現在の岡山県で誕生します。

1141年、法然が9歳のときに父が土地関連でもめて、夜討ちで殺害されてしまうが

父の遺言により仇討ちを断念し、母方の叔父の僧侶、観覚のもとに引き取られます。

 

法然の僧侶としての才覚に気づいた観覚は、出家のための学問をさせ、

当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を法然に勧めます。

 

1145年、法然比叡山に上り、源光に師事します。

1147年、得度し、授戒を受けます。

18歳で法然房という房号源空という名前を授かります。

 

1175年、43歳のときに、専修念仏を奉ずる立場に進んで、新たな宗派である浄土宗を開宗します。

浄土宗は南無阿弥陀仏を口にして唱えれば、必ず仏の救済を受けて平和な毎日を送り、浄土にいくことができる、という他力本願の教えです。

 

この念仏による往生を専修念仏といいます。

 

この浄土宗の教えが広まっていくにつれ、

迫害も行われるようになります。

 

そして、1204年、叡山三塔の大衆が 専修念仏の停止を、ときの天台座主真性に申請しました。

なぜ、このような訴えが起こったかというと、念仏以外の行や阿弥陀仏以外の信仰対象をそしったり、念仏以外の行を実践している者を雑行人とののしったり、無理に引き入れようとした、というわけです。

 

また、法然の説を曲解して自分勝手な説を広げ、あろうことか法然の説であるかのように広める、という事態も起こりました。

 

法然は門弟を集めて、七箇条からなる制誡をつくり、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送りました。

 

しかし、1207年、後鳥羽上皇により、念仏停止の断が下されます。

そして、法然は同年に讃岐国(現在の香川県)に流されてしまうのです。

 

法然の讃岐滞在は結果として10か月という比較的短いものに終わるのですが、

75歳の高齢にもかかわらず精力的に布教している足跡がうかがえます。

 

空海の建てた由緒正しき善通寺にも法然は訪れています。

 

そして同年の12月の赦免された法然摂津国(現在の大阪府箕面市)に滞在し、

1211年に京へと戻ります。

 

そして78歳で逝去します。

 

この法然の広めた浄土宗は貴族に限らず、武士や庶民にも広く知れ渡り、

日本で一般の女性にも広く布教された初めての宗教といわれます。

法然は教えを国家権力とは切り離し、個人レベルでの救済という点に着眼していました。

 

そして法然は万人が仏になるすべを初めて唱えました。

それが「南無阿弥陀仏」と念じることでした。

 

◆名言

ーーーーーーーーーー

浄土を往生しようと望む人は、それができるか、できないかに迷わずに、自分が間違いなく往生できるのだという確信をもって念仏すれば、必ず往生できる。

 

ーーーーーーーーーー

一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべきなり。

 

ーーーーーーーーーー

数限りなく念仏を唱えることで、その巨身は次第に縮小され、やがては等身大になって念仏者の眼前に立ち現れる

 

ーーーーーーーーーー

むかちん

むかちん歴史日記221 世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズ① 古代ギリシアの哲学者~ソクラテス

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今日は、世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズの第一弾!

古代ギリシアの思想家

 

ソクラテス(紀元前469頃~前399頃)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9

 

ソクラテスは彫刻家の父と助産婦の母との間に生まれ、その生涯のほとんどをギリシアアテナイで過ごしました。

 

彼はアテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との戦争であるペロポネソス戦争に重装歩兵として従軍し、晩年は哲学者としての生活に専念したといわれています。

 

ソクラテスの思想で誰もが知っているのは「無知の知」という言葉でしょう。

ソクラテスは小事にも大事にも疎い自分は賢明ではない、と考えていたため、

巫女に尋ねてみたところ、ソクラテスより賢明な者はいないと答えました。

 

ソクラテスはその意味が全くわからず、むしろその神託の反証を試みようと様々な知識人や政治家、職人と対話を繰り返します。

ここで気づいたことは、彼らは確かに自分たちの専門知識には秀でていたものの

それをもってそれ以外にも精通しているという思い込みがあったということです。

 

要は知らないことを知っていると思い込んでいるわけです。

 

ソクラテスはこの経験から神託の意味を

「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」

ことを指しているのだと理解を深め、やがて確信に変わっていきます。

 

そこからソクラテスは次第に神託は

人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」

「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」

 

これらを指摘いくことだという結論に至り、

ソフィストのように報酬を受け取るわけでもなく、

家族も顧みず、極貧生活になりながらもこれをライフワークにしていきます。

 

ソクラテスを本当の賢者と評するものもいる一方で、

こうした指摘を受けた政治家や学者たちは次第にソクラテスへの憎しみを募らせ、

また面白がるものもあらわれます。

 

そして、ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられてしまうのです。

 

しかしソクラテスは自説を曲げたり、謝罪することもなく、死刑となります。

 

これに同情するものも多く、彼が脱獄できるように準備もなされていたが、

ソクラテスはこれをかたくなに拒否します。

 

ソクラテスの思想の根幹にあるのは、ただ生きるのではなく「善く生きる」こと。

票決に反する不正を行うのではなく、まっすぐに死を選ぶことでした。

 

結局、ソクラテスの死刑は遂行されるのですが、

彼の死後、アテナイの人々は不当な裁判で彼を死なせてしまったことを嘆き、

告訴人たちを裁判抜きで処刑するという事態が発生します。

 

ソクラテス自身は著述を行わなかったために、一部の考え方はプラトンら弟子の思想ではという説もあるが、

 

彼が著述を好まなかった理由に、

話し言葉=生きている言葉、書き言葉=死んでいる言葉

という理解があったそうです。

 

書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠ける、という彼の考えがあり、

現在に至るまで残っている記録は彼の弟子によって残されたものです。

 

◆名言

ーーーーーーーーー

できれば、
人より賢くなりなさい。

でも、それを
人に知らせてはいけません。

 

ーーーーーーーーー

書物を読むということは、
他人が辛苦して
なしとげたことを、

容易に自分に取り入れて
自己改善する最良の方法である。

 

ーーーーーーーーーー

行動し経験しなさい。
人間の美徳はその行いによって
おのずと増えていきます。

 

ーーーーーーーーーー

深く考えない人生は、
生きるに値しない。

 

ーーーーーーーーーー

自身が無知であることに
気づいた人間は、

自身が無知であることに
気づかない人間よりも
はるかに賢いのである。

 

ーーーーーーーーーー

生きるために
食べなさい。

食べるために
生きるようになっては
いけません。

 

ーーーーーーーーーーー

良き友よりにまさる
財産などありはしない。

 

ーーーーーーーーーーー

世界を動かしたい
と願うなら、

まずは
自分自身が動きなさい。

 

ーーーーーーーーーーー

幼にしては、
謙遜でありなさい。

弱にしては、
温和でありなさい。

壮にしては、
公正でありなさい。

老いては、
慎重でありなさい。

 

ーーーーーーーーーーー

あなたに対して
褒め言葉しか言わない人間は
信頼するに値しない。

間違いを指摘してくれる人こそ
信頼に値する人物である。

 

ーーーーーーーーーーー

むかちん

 

 

むかちん歴史日記220 音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズ⑤ 芸術は爆発だ!~岡本太郎

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は、音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズの第5弾!!!

 

芸術は爆発だ!!で有名な芸術家

 

岡本太郎(1911-1996)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E

 

◆岡本は1911年に漫画家の父と小説家の母との間に誕生します。

岡本は1917年、小学校に入学するがなじめずに転校を繰り返し、

ようやく慶應義塾幼稚舎で岡本の理解者となる教師と出会い、クラスでも人気者になります。

 

ただ、成績は万年最下位だったとのこと。

 

絵は幼少期より好きだったが、何のために描くのかを迷いつつ、

慶應義塾の普通部を卒業後、東京美術学校に入ります。

 

岡本の父がロンドン軍縮会議の取材に行くことになり、岡本と岡本の母と母に愛人もヨーロッパにわたり、岡本は1930年から1940年までの10年間をパリで過ごします✨

 

1932年、岡本はパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て強い衝撃を受けます。

ここから岡本はピカソを超えることを目標にして芸術に打ち込むようになります。

 

1940年、ドイツのパリ侵攻をきっかけに帰国、1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、1942年、岡本は中国戦線へと出征することになります。

 

1945年、日本の降伏により終戦を迎え、岡本は帰国すると、自宅も作品も焼失してしまっていたため、新たにアトリエを構えて、作品の制作に励みます。

岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表します。

 

1960年代後半にメキシコに滞在し、壁画に影響を受けます。

この影響を受けて作られたのが「太陽の塔」と「明日の神話」です。

 

太陽の塔は1970年に大阪で万国博覧会が開かれることになり、

テーマ展示のプロデューサー就任を要請された岡本はとにかくべらぼうなものを作るという意気込みで『太陽の塔』を完成させます。

 

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参照元

https://taiyounotou-expo70.jp/about/

 

一方で『明日の神話』は第五福竜丸が水爆実験により被ばくしたことがモチーフとなっており、岡本の最大の傑作と評されます。

 

この作品はメキシコオリンピックのために建設中であったホテルのために制作されたのですが、このホテルが途中で倒産し、この作品は途中で行方知れずになる事態に陥ります。

 

メキシコの資材置き場を転々とした挙句、発見されたのはなんと2003年。

欠損などもあったため、再生プロジェクトが立ち上げられ、

現在は渋谷マークシティの連絡通路に恒久展示されています。

 

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参照元 

https://www.1101.com/asunoshinwa/news.html

 

岡本は死の直前まで創作意欲は衰えず、

1996年死去します。84歳。

 

◆名言

ーーーーーーーーーーーーー

でたらめをやってごらん。口先では簡単にでたらめなら、と言うけれども、いざでたらめをやろうとすると、それができない

 

ーーーーーーーーーーーーー

自分の中にどうしても譲れないものがある。それを守ろうとするから弱くなる。そんなもの、ぶち壊してしまえ!

 

ーーーーーーーーーーーーー

同じことを繰り返すくらいなら、死んでしまえ

 

ーーーーーーーーーーーーー

なんでもいいから、まずやってみる

 

ーーーーーーーーーーーーー

評価されるなんて一切必要なし!音が好きならば、音になっていないといわれようと「音」を出す。これが前提だな

 

ーーーーーーーーーーーーー

危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ

 

ーーーーーーーーーーーーー

面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。ただ前に向かって身心をぶつけて挑む瞬間、瞬間があるだけ

 

ーーーーーーーーーーーーー

自分が何をやりたいか、何を伝えたいかが分かっていたら、技術は後からついてくる

 

ーーーーーーーーーーーーー

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難な方の道を選んできた

 

ーーーーーーーーーーーーー

挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などはない

 

ーーーーーーーーーーーーー

むしろ「成功は失敗のもと」と逆に言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言いあてている

 

ーーーーーーーーーーーーー

手なれたものには飛躍がない。常に猛烈なシロウトとして、危険をおかし、直感に賭けてこそ、ひらめきが生まれるのだ

 

ーーーーーーーーーーーーー

人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ

 

ーーーーーーーーーーーーー

自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ

 

ーーーーーーーーーーーーー

自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければ尚いい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを越えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ

 

ーーーーーーーーーーーーー

友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる

 

ーーーーーーーーーーーーー

人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか

 

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むかちん

 

 

 

 

むかちん歴史日記日記219 音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズ④ 近代彫刻の父~ロダン

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズの第4弾!!!

 

近代彫刻の父

 

ロダン(1840-1917)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3

 

1840年、パリ在住の労働者の階級の家庭に生まれます。

ロダンは美術の専門教育は受けたことがなく、ほとんど青年期に独学で学んだそうです。

 

10歳のときに初めて絵を描いたことで、美術に興味を持ち始め、14歳のときにプティット・エコールと呼ばれる工芸学校に入ります。

プティット・エコールを17歳で出たロダンは学業継続を希望して、エコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願するも受け入れられず、

失意の中にあったロダンをさらに襲ったのが、経済的に支えてくれた姉の死でした。

 

彼女は修道女になっていたため、ロダンも姉の遺志を継いで、修道士を目指そうとしますが、ロダンのは向いていない、美術を継続すべしと諭され、修道士も断念します。

 

ロダンは24歳で結婚し、子供も授かりますが、普仏戦争の影響で仕事が減少して、経済が苦しかったため、職を求めてベルギーへと移住します。

このベルギー時代がロダンの作品には大きな影響を与えます。

 

そのベルギー滞在中に生活費を節約して工面したお金で妻とイタリア旅行に出かけますがそこで出会ったドナテッロとミケランジェロの彫刻に、ロダンは大きな影響を受けます。

 

その後に作ったのは『青銅時代』と呼ばれる男性像の彫刻でしたが

あまりに精緻なため実際の人間から型を取ったのではと疑われました。

 

これに憤慨したロダンはさらに大きなサイズのものを制作し、ようやく認められ、

ロダンの名はフランス中にとどろくようになりました。

 

1880年、ダンテの元に国立美術館を設立するからモニュメントの製作をしてほしいという依頼が来ます。

このモニュメントはルネサンス期の大家、ダンテの『神曲』に登場する『地獄の門』でした。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3

 

ロダンはこのころ、教え子のカミーユ・クローデルに夢中になりますが、

カミーユに妻のローズか自分にするのかと迫られ、ローズのところへ逃げたときには

カミーユは精神病院へ入ることになってしまいます。

 

1889年、こうした背景もあり、地獄の門をのぞき込む男の彫刻をロダンは発表します。

その姿はカミーユ、ローズとの間にできた認知していない子供もいて、

それを見て苦悩する男の姿を現しています。

 

これが世にいう『考える人』です。

考える人という名前はロダンがつけたものではなく、鋳造した職人がつけたものです。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA_(%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3)

 

1917年、77歳でロダンはこの世を去ります。

地獄の門は結局未完のままおわりました。

 

◆名言

ーーーーーーーーー

低級な芸術家たちは、常に他人の眼鏡をかける

 

ーーーーーーーーー

自然は常に完全である。決してまちがわない。まちがいは我々の立脚点、視点の方にある

 

ーーーーーーーーー

芸術とは、自然が人間に映ったものです。大事なことは、鏡をみがくことです

 

ーーーーーーーーー

もし仕事というものが、人間にとって生きることのあがないではなく、生きることの目的であったら、人間はどんなに幸福だろう

 

ーーーーーーーーー

真の芸術家とは、喜びのために仕事をする唯一といってよい人達だ

 

ーーーーーーーーー

かぶりついて仕事せよ

 

ーーーーーーーーー

天才?そんなものは決してない。ただ勉強である。方法である。不断に計画しているということだ

 

ーーーーーーーーー

肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。芸術家である以前に、人間であることだ

 

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むかちん

むかちん歴史日記218 音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズ③ ドイツ歌曲の王~シューベルト

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今日は音楽や美術など芸術で才能を発揮した偉人シリーズの第三弾!!!

 

ドイツ歌曲の王

 

シューベルト(1797-1828)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

 

シューベルトはウィーン郊外で教師の父と元コックの母との間に誕生し、

父はアマチュアの音楽家でもありました。

 

シューベルトは7歳になると音楽の才能を発揮し始め、

ミヒャエル・ホルツァーが指導する聖歌隊に預けます。

 

ホルツァーは彼の才能に一目を置き、

聖歌隊に隣接するピアノ倉庫を使えるように便宜を図り、

そのおかげで貧しいシューベルトでは触れられなかったようなピアノを使うことができました。

 

1808年にコンヴィクトと呼ばれる寄宿制の神学校に通い、

ここの宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室に17歳まで所属します。

 

学生オーケストラの練習や寄宿生との交流のなかでシューベルトは多くのものを得て、

このころより作曲の分野で才能を示しつつありました。

 

日曜や祝日に兄や父と自宅でカルテット演奏会を行っていた関係で

楽曲は室内音楽がほとんどでした。

 

1813年、彼は変声期を迎えていたため、合唱は不可能と判断し、コンヴィクトを去ります。兵役をのがれるため、教師として働き始めます。

 

1816年、コンヴィクト時代の友人の友人がシューベルトの曲を聴き、

教師を辞めて芸術を追求しないかと持ち掛けます。

彼はそれに応じ、作曲に専念するようになります。

 

そして1818年には初めて自身の作曲した曲の公演が行われます。

 

1820年ごろ、彼の曲はそれまでアマチュアオーケストラとして限定的な感じであったので、この時、広く一般に親しまれるものを作る必要が出てきました。

 

シューベルトの『魔王』は彼が一般広く注目される契機となった曲の1つです。

 

www.youtube.com

 

一時はなかなかうまくいかなかったシューベルトたちですが

そこから抜け出し、

 

晩年まで曲を書き続けます(#^^#)

 

1828年シューベルト死去。31歳。

 

没後は歌曲の王という位置づけがなされていたものの、

それ以外の『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いては

放置に等しい状況だったそうです。

 

シューマンが一部を発見し、世に送り出しました。

また彼は大量に曲を遺して亡くなったため、

20世紀に入ってもシューベルトの曲は難航し、残った楽譜でも例えば

デクレシェンドだったのかアクセントなのかわからない部分があったり、

様々な謎が残っている。

 

むかちん

むかちん歴史日記217 音楽・美術など芸術で才能を発揮した偉人たち② バロック音楽の大家~バッハ

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今日は音楽・美術など芸術で才能を発揮した偉人たちシリーズの第2弾

 

バロック音楽といえば、この方!!!!

 

バッハ(1685-1750)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

 

◆1685年、ヨハン・セバスティアン・バッハルター派プロテスタントの一派)の音楽家のバッハ家の8人兄弟の末っ子として誕生します。

 

1703年、ヴァイマルの宮廷楽団に就職し、バッハはヴァイオリンを担当したが、オルガンを代打演奏することもありました。

アルンシュタットの新教会に新しいオルガンが設置されると同時に、

そのまま同教会のオルガニストにも採用され、聖歌隊の指導にもあたりました。

 

バッハは1707年に結婚し、7人の子を授かりますが、その生活費の工面などで

常にいい条件の仕事を探し求めていました。

 

1708年にはザクセンヴァイマル公国の宮廷オルガニストなり、その後

1717年、アンハルト=ケーテン侯国宮廷楽長として招聘され、ヴァイマルを離れようとしますが、ザクセンヴァイマル公はこれを承諾せず、バッハは1か月投獄されることになります。

 

同年、ケーテンに移り、音楽に理解のある主君の下、様々な世俗音楽を世に送り出します。

バッハが世俗音楽の作曲に集中できたのは、ケーテン公がプロテスタントの一派でカルヴァン派を信仰していたことが大きく、カルヴァン派では大規模な教会音楽は必要ではなかったのです。

 

1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任します。同時にライプツィヒ市の音楽監督にも就任し多くの教会音楽を生み出します。

 

バッハは晩年は目を患い高名な医師の手術を受けるが悪化、

1750年、65歳で逝去します。

 

バッハは生前はオルガン奏者、専門家であったが、知名度は低く、

どちらかというと息子たちのほうが国際的に活躍していたので、

そちらのほうが有名であった。

 

しかし、彼の鍵盤楽曲を中心に息子たちやモーツァルトベートーヴェンメンデルスゾーンショパンシューマン、リストなどといった音楽家たちによって細々と、

しかし確実に受け継がれ、1829年メンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに一般にも高く再評価されるようになりました。

 

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◆名言

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音楽は世界語であり、翻訳の必要がない。
そこにおいては、魂が魂に話し掛けている。

 

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風は見えなくても風車は回っている。
音楽は見えなくても心に響いてくる、囁きかける。

 

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むかちん